久留島義太

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久留島 喜内(くるしま きない、生年不詳 - 宝暦7年11月29日1758年1月9日))は江戸時代和算家で将棋指し。本名は義太(よしひろ)。沾数(扇数)と号した。収入のほとんどをにつぎ込むほどの酒好きで、自身では著書をほとんど残さなかった。その学説が伝わるのは、弟子が彼の原稿・理論をまとめたことによる。

和算家として

父は村上佐助義寄といい、主家断絶後に父子ともに浪人となり、を久留島と改める。独学数学を学び、中根元圭に見いだされる。

後世、関孝和建部賢弘と共に三大和算家と称されている。レオンハルト・オイラーより早くオイラーのφ関数に言及していたとも言われる。

極値問題を級数展開の視点から考察し、ピエール・ド・フェルマーの方法に近いものを得た(『久氏弧背術』)。そのほか、整数方程式無限級数研究で有名である。行列式の展開では関孝和の『解伏題之法』の誤りを訂正して、『大成算経』(関孝和・建部賢弘・建部賢明)や『算法発揮』(井関知辰)とは異なる、正しい展開を導いている。

天衣無縫で酒を好み、自らの研究成果に無頓着で、研究成果を書き記した紙で行李の裏を張ってしまったという。和算家としての業績については、知人や弟子により『久氏弧背術』『久氏三百解』『久氏遺稿』などの書物にまとめられた。また同僚の松永良弼著『方円算経』に多く引用されている。

詰将棋作家として

喜内は指し将棋でもアマチュア高段程度の腕前があったと言われているが、特に詰将棋の作図で有名である。今日でも詰将棋の作図に使われる趣向「金知恵の輪」「銀知恵の輪」を考え出すなど、論理的な作風で多数の傑作を残した。また曲詰が得意であり、添田宗太夫桑原君仲とともに江戸時代の3大曲詰作家とも呼ばれている。喜内の作品を集めた古図式として、100局を収めた『将棋妙案』と120局を収めた『橘仙貼璧』が残されている。

関連書籍

参考文献

外部リンク