ピエール・ド・フェルマー

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ピエール・ド・フェルマー
ピエール・ド・フェルマー
人物情報
生誕 1607年-1608年[1]
Royal Standard of the King of France.svg フランス王国ビューモント・ド・ロマーニュ
死没 1665年1月12日
Royal Standard of the King of France.svg フランス王国タルヌ県カストル
居住 Royal Standard of the King of France.svg フランス王国
国籍 Royal Standard of the King of France.svg フランス王国
学問
研究分野 法学数学言語学光学
主な業績 解析幾何学
微分積分学
確率論
数論
フェルマーの最終定理
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ピエール・ド・フェルマー(Pierre de Fermat、1607年末または1608年初頭[1]- 1665年1月12日)はフランス数学者。「数論の父」とも呼ばれる。ただし、職業は弁護士であり、数学は余暇に行ったものである。

略歴[編集]

  • 1607~8年 - 南フランスのトゥールーズ近くのボーモン・ド・ロマーニュに生まれる[1]
  • 1631年 - トゥールーズの請願委員となり、母の従姉妹のルイズ・ド・ロンと結婚。
  • 1648年 - トゥールーズ議会の勅撰委員となる(死ぬまでこの地位にあり続けた)。
  • 1665年1月12日 - 死去

農民が空腹と貧困で一揆を起こしていた時期に、フランスの小さな農村で誕生した。 正確な生年は確定されていないが、1607年末から1608年初頭である。従来は1601年とされていて墓に記されている没年齢との矛盾が謎であったが、2001年に発見された資料で生後すぐ死んだ兄との混同であったことが確定した[1]

4000gを超える健康な子だった。実父のエドゥアールはピエールが生まれてすぐに一揆で死亡したため、母マリーは女手一つでフェルマーを育てた。マリーは法律家の家系の出であり、彼女の熱心な教育も後押しして、トゥールーズで弁護士の資格を取得、そこで法律家として一生を過ごした。

業績[編集]

数学においては、パスカルと共同で確率論の基礎を作り、デカルトと文通を交わしながらデカルトとは独立に解析幾何学を創案するなどの功績を残す。 解析幾何学については、デカルトが二次元での理論にとどまったのに対し、フェルマーは三次元空間でも考えていた。その他、幾何学微分積分学といった諸分野においても先駆的な仕事を遺しており、特に数論における仕事は独創的で後世の数論家たちに大きな影響を与えた。

数論への傾倒の直接的な契機は、古代ギリシャの数学者ディオファントスが著した『算術』 (Arithmetica) の注釈本を1630年ごろに手に入れて研究したことのようである[2]。 『算術』を熟読していくうちに彼はその余白に有名な48の注釈を書き込んだ[2][3]。 フェルマーの数論における仕事が世に知られるようになったのは、その死後に長男のサミュエルが『算術』を父の書込み付きで再出版してからであり、数論の研究においては事実的に孤立していた[2]

48の書込みのうち47の命題は後世の数学者達によって証明または否定の証明が与えられたが、最後の一つ(2番目の書き込み)は長年にわたって解かれずにいた[2]

2番目の書き込み
原文 日本語訳
Cubum autem in duos cubos, aut quadratoquadratum in duos quadratoquadratos, et generaliter nullam in infinitum ultra quadratum potestatem in duos eiusdem nominis fas est dividere cuius rei demonstrationem mirabilem sane detexi. Hanc marginis exiguitas non caperet.[4] 立方数を2つの立方数の和に分けることはできない。4乗数を2つの4乗数の和に分けることはできない。一般に、(べき)が2より大きいとき、その冪乗数を2つの冪乗数の和に分けることはできない。この定理に関して、私は真に驚くべき証明を見つけたが、この余白はそれを書くには狭すぎる。

最後に残された、という意味でフェルマーの最終定理とも呼ばれるようになった有名な命題(3 以上の自然数 n について、xn + yn = zn となる 0 でない自然数 (x, y, z) の組み合わせが存在しない)は、容易に理解できる単純な内容であるにもかかわらず、プロ・アマ誰一人として証明も否定も成功せず、360年にわたって数学の原動力の一つであり続けた。 この問題は最終的に1995年アンドリュー・ワイルズ谷山・志村予想の一部を証明したことによってようやく解決され、20世紀数学の掉尾を飾る金字塔となった。

『算術』への書込みは大きく分けて「証明できた」と断言しているものと、「予想される」と断言を避けているものがある。 書込みの中には後世の数学者達によって否定的に証明されたものもあるが、それらは全て「予想する」と書かれたものであり、フェルマーが「証明できた」と断言しているものは全て後世の数学者達によって肯定的に証明されている。

したがって、フェルマーが「驚くべき証明を発見した」と記しているフェルマーの最終定理についても、フェルマーは本当に証明していたと考える者[誰?]もいる。 しかし、ワイルズによる証明は19世紀・20世紀の数学の粋を集めた高度なものであり、もしフェルマーによる証明がそれと同質のものであるならば、フェルマーは1人だけ400年先のレベルに到達していたこととなるため、とても信じられない、ハッタリだ、と考える者[誰?]もいる。

言語にも堪能であったフェルマーは、自国のフランス語の他、スペイン語ラテン語で詩を作り、高い評価を得ている[要出典]

脚注[編集]

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]