中村みつ

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中村 みつ(なかむら みつ、1874年明治7年〉5月27日 - 1942年昭和17年〉5月13日[1]は、明治時代から昭和時代にかけての教育者。私立浜松裁縫女学校(現浜松学芸中学校・高等学校)の校長兼教諭[2][3]中村光子とも。

生涯[編集]

東海道浜松宿、菅原の村石家の次女として生まれた。村石家は東海随一といわれた石屋で、常時多くの石工が働いていた。裕福な家庭だったため、母や姉たちは着飾っては芝居見物や物見遊山に出かけたが、みつはあまり好まず、「みつは変わった娘だ」と親に言わせるほどだったという。[要出典]

13歳で浜松裁縫伝習所(修業年限2年)へ進み、1889年(明治22年)に卒業。以後、織田某に普通学(一般教養)を、河合某に茶道を、有住齊礼法を学んだ[4]

婚姻

後に夫となる中村萬吉との出会いは、みつが伝習所教師をしていた頃で、碑文を書くため、萬吉が村石家へ暫く寄居していたのがきっかけであった。萬吉は小柄で痩身で、深い知性を兼ね備えて、見る人を惹きつける人物だったが、服装は無頓着で、の切れたを平気で履いていた。これを見かねたみつが世話をするうちに恋心が芽生え、両親の危惧をよそに、縁談が進み、吉日の日に、みつ20歳、萬吉25歳の時に祝言を挙げた。[要出典]

不如学舎・浜松裁縫女学校

1893年(明治26年)萬吉が開いた「不如学舎」女子部の裁縫科主任に就任したが、2年後、高度な学問を身に着けるため夫と共に東京へ遊学、萬吉は高等師範学校(国語漢文専修科)、みつは東京裁縫女学校(渡邊裁縫女学校)へ入学した。1902年(明治35年)裁縫科教員検定試験に合格[4]

その後、みつは私立女学校設立準備のため三人の子を連れ帰郷。地元有力者の協力を得て、1903年(明治36年)1月、浜松利町に私立浜松裁縫女学校が開校(当初の校主は貴族院議員長谷川貞雄)。みつは校長兼教諭に就任した。

数年後には、「裁縫で身を立てるのなら、あの学校に限る」といわれるようになり[要出典]、生徒も増加し校舎が手狭となったため、1907年(明治40年)11月には浜松町常盤に新校舎を新築移転した。

死別

夫・萬吉は栃木県安蘇郡佐野高等女学校の教諭兼校長を務めていたが、強度の神経痛に見舞われ、起居もままらなくなったため、みつは忙しい校務を割いて看病のため佐野に赴いた[要出典]1911年(明治44年)3月、療養のため浜松に帰った萬吉はそのまま病床に伏し、みつの看病も虚しく同年6月14日逝去。享年43(数え)。

校長として

萬吉の急逝により、親族からは即刻学校経営を断念するように何度も勧告されたが、亡夫の遺志と在校生を守るという、みつの強い意志により学校は守られた[要出典]。さらに、後継者であった長男祐一郎が、僅か25歳の若さで急逝[要出典]。のちに倉野氏より春治郎(1900年生)を養嗣子に迎えた[5]

浜松裁縫女学校はその後、浜松高等裁縫女学校(1922年)、浜松高等家政女学校(1929年)、浜松信愛女学校(1941年)へと校名を変更[2]。みつは1933年(昭和8年)6月に静岡県教育会より、さらに1934年(昭和9年)10月には全国実業教育者大会にて、教育功労者の表彰を受けた[6]

戦時下も校長職を全うし、1942年昭和17年)5月逝去。享年69。その職は、東洋大学哲学科卒業(1927年)後に女学校教諭となった中村春治郎に引き継がれた[2]

脚注[編集]

  1. ^ 生年月日は、静岡県誌編纂所『静岡県誌』1934年に依る
  2. ^ a b c 学校法人信愛学園事業報告書」令和元年度(PDF)
  3. ^ 浜松市史 三(第三章第五節第二項 中等教育 / 信愛高等女学校と西遠高等女学校)”. 浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ. 2022年6月17日閲覧。
  4. ^ a b 中島忠利『フースヒー豊橋・岡崎・浜松号』フースヒー社、1914年(ナ之部・中村光子女史)
  5. ^ 春次郎とも。帝国秘密探偵社『大衆人事録 中部篇』1940年(静岡の部40頁・中村春次郎)参照
  6. ^ 万朝報社調査部『開国七十年紀念 日本国民誌 人物篇』1935年。実業教育者大会での実業敎育功労者表彰の趣旨については、文部省実業学務局編『実業教育五十周年記念会誌』1935年参照

参考文献[編集]

  • 信愛学園高等学校「八十五年のあゆみ」、昭和62年10月30日
  • 浜松学芸高等学校「浜松学芸高等学校 創立百周年記念誌」、平成14年10月29日