三津漁港 (京都府)

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三津漁港(みつぎょこう)は、京都府京丹後市網野町三津にある漁港漁場整備法に規定する第1種漁港である。大型定置網漁を中心とした沿岸漁業の基地港であり、一本釣り、水視、採貝採藻漁業なども営まれている[1]

概要

  • 所在地 - 京都府京丹後市網野町三津
  • 管理者 - 京丹後市
  • 漁業協同組合 - 京都府漁業協同組合 網野支所
  • 組合員数 - 30名(1993年・島津漁業協同組合)、漁業経営体数9団体、登録、利用漁船はともに31隻[1]
  • 漁港番号 - 3010240

歴史

三津丸(2013年3月)

三津では宝永年間には、漁業が盛んとなるが、それ以前から釣りによるタイ漁獲が行われており、ワカメも「三津和布」として、各地に販売されていた[2]文禄年間には、農業の傍らでの漁業がおこなわれ繁栄したが、1754年(宝暦4年)の火災で30戸を焼失したとされる[2]1712年正徳2年)、宮津城主にタイを献上したところ、賞状が授与されたことで、漁業が発達する要因となる[3]

明治・大正時代から昭和初期にかけて、延縄漁補を用いてタイを多く漁獲していた[4][5]。そのほか、サバイワシアワビも漁獲された[4]。また、明治時代から底引網方式で、ブリマグロトビウオなどを漁獲していた[6][7]。マグロは、1936年1937年(昭和11年・12年)が最も最盛期となり、定置網を毎日3回、30匹の水揚げがあった[6]

1949年昭和24年)に、45人の組合員で構成される農業協同組合が設立され、その後、1968年(昭和43年)頃から動力化も進められた[7]1954年昭和29年)7月12日、第1種漁港に指定された。設備面では、1983年(昭和58年)には、漁港施設改修を実施し(事業費3,500万円)、翌1984年には、漁港西側に漁船繋留用桟橋(40メートル)を設置するとともに、定置事業用の作業船「三津丸」を建造した[6]

終戦後、漁業は衰勢をたどり、織物工業への転向が進んだ[8]

三津漁業生産組合

組織として、組合長理事1名、理事4名、監事2名の役員を置く。1946年(昭和21年)、定置網漁は個人経営として創業されるも一時途絶え、1956年(昭和31年)には個人経営として再創業され、1974年(昭和49年)には島津漁業協同組合として創業開始するなど、何度かの経営形態の変更を経て、1998年(平成10年)、三津漁業生産組合に移行した[9][10]

三津漁業生産組合では2020年(令和2年)3月まで2ケ統の大型定置網業を経営していた[11]

主な魚種

定置網漁を行っている4月から10月にかけて、以下の魚種が主に漁獲される[12]

関連項目

脚注

  1. ^ a b 京都府漁港協会 1996, p. 75.
  2. ^ a b 網野町誌編さん委員会 1994, p. 142.
  3. ^ 網野町誌編さん委員会.
  4. ^ a b 益田, p. 23.
  5. ^ 益田, p. 71.
  6. ^ a b c 益田, p. 72.
  7. ^ a b 益田, p. 135.
  8. ^ 網野町史編纂委員会, p. 123.
  9. ^ 『定置網漁体験ガイドブック』三津漁業生産組合、2頁。 
  10. ^ 三津漁業生産組合”. 2021年6月12日閲覧。
  11. ^ 『定置網漁体験ガイドブック』三津漁業生産組合、5頁。 
  12. ^ 三津漁業生産組合”. 2021年6月12日閲覧。

参考文献

  • 『京都の漁港漁村』京都府漁港協会、1996年、75頁。 
  • 益田庄三 編『京都の漁業歳時記』京都府漁業協同組合連合会、1987年10月2日。 
  • 網野町史編纂委員会 編『網野町史』京都府竹野郡網野町役場、1960年4月15日。 
  • 網野町誌編さん委員会 編『網野町誌 中刊』1994年8月15日。 

外部リンク

座標: 北緯35度42分42.5秒 東経135度3分56.1秒 / 北緯35.711806度 東経135.065583度 / 35.711806; 135.065583