一色義道

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一色 義道(いっしき よしみち、生年不詳 - 天正7年(1579年))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての大名丹後国守護。別名は義通。官途は式部大輔、左京大夫。父は義幸、子に義定がいる。

生涯

一色氏室町幕府四職に数えられる名家であったが、戦国時代には没落の一途をたどり、丹後守護職も隣国の若狭武田氏に奪われ、かつての守護家の権威をもって実効支配を続ける状態にあった。永禄元年(1558年)、父・義幸の隠居により家督を継承し、弟の義清を吉原城に配して丹後国の奥三郡を治めさせている。

越前一向一揆討伐戦に参加するなど織田信長と親交を深め、信長より丹後一国を安堵される。しかし、比叡山焼き討ちよって追われたを匿うなど信長と対立し、天正6年(1578年)には明智光秀長岡藤孝らによる丹後国への侵攻を招いた。

翌天正7年(1579年)、国人による相次ぐ織田方への寝返りを招き、居城の建部山城も落城する。義道は但馬国への亡命を企てて途中の中山城に身を寄せたが、城主の沼田幸兵衛は長岡方に内応したため行き場を失って自害した。

備考

  • 義道は領内に悪政を敷いたため人望に乏しく、そのために国人の離反を防げなかったとされている。