徳川昌丸
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(一橋昌丸から転送)
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 弘化3年1月8日(1846年2月3日) |
死没 | 弘化4年8月20日(1847年9月29日) |
戒名 | 馨明院 |
墓所 | 東叡山寛永寺・凌雲院 |
官位 | 贈 従三位左近衛権中将 |
幕府 | 江戸幕府 |
氏族 | 徳川氏(尾張徳川家、一橋徳川家) |
父母 | 父:徳川斉荘、母:宮田氏 |
兄弟 | 勝姫、利姫(浅野慶熾室)、邦姫、釣姫(松平乗命室)、女子、慶臧、昌丸(出典:『徳川諸家系譜』第二[1]) |
特記 事項 | 徳川慶喜が跡を継いだ |
徳川 昌丸(とくがわ まさまる)は、江戸時代後期の武士。御三卿・一橋家の8代当主[2]。
弘化3年(1846年)1月8日、尾張家市谷邸で誕生[2]。父は尾張藩藩主・徳川斉荘、母は宮田氏[2]。幼名は昌丸[2]。父・斉荘は、昌丸が生まれる前年、弘化2年(1845年)7月6日に亡くなっている[1]。
弘化4年(1847年)5月7日、一橋家7代当主・慶壽が死去[3]。同日、一橋家の家督を相続した[2]。当時、一橋家の当主になるということは事実上、将軍家世子に次ぐ将軍候補になるということであった[要出典]。
同年8月20日、2歳で夭折した[2]。法号は馨明院[2]。墓地は芝増上寺にある[要出典]。
同年9月1日、幕命により水戸藩藩主・徳川斉昭の七男・慶喜が跡を継いだ[2]。これにより、一橋家では曽祖父の治済から続いた血筋が絶えた。
嘉永元年(1848年)4月10日、従三位左近衛権中将を追贈された[2]。
脚注
[編集]- ^ a b 続群書類従完成会 1974, p. 231.
- ^ a b c d e f g h i 続群書類従完成会 1979, p. 26.
- ^ 続群書類従完成会 1979, p. 25.