一木清直
一木 清直 | |
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一木清直 | |
生誕 |
1892年10月16日 日本 静岡県 |
死没 |
1942年8月21日(49歳没) イギリス ガダルカナル島 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1916 - 1942 |
最終階級 | 陸軍大佐(死後少将に昇進) |
一木 清直(いちき[1] きよなお、1892年10月16日 - 1942年8月21日)は、日本の陸軍軍人。陸軍士官学校卒(28期)。
軍歴
- 1916年 陸軍士官学校(28期)卒
- 1926年 大尉へ昇進
- 1933年 歩兵学校配属
- 1934年 少佐へ昇進
- 1935年 歩兵学校教官
- 1936年 支那駐屯歩兵第1連隊第3大隊長
- 1937年7月7日 盧溝橋事件
- 1938年 中佐へ昇進 歩兵学校教官
- 1939年 兼・戸山学校教官
- 1941年 歩兵学校材料廠長
- 同年 大佐へ昇進、歩兵第28連隊長
- 1942年5月、ミッドウェー島占領部隊の「一木支隊」支隊長(作戦中止)
- 同年8月21日、ガダルカナル島の戦いのイル川渡河戦(米国名:テナルの戦い)で督戦中に死亡
エピソード
盧溝橋事件当時、牟田口廉也連隊長の指揮下で中国軍陣地への発砲命令を受けた際に「本当に発砲しろという命令ですね」と確認の記録を残している。盧溝橋では永定河中州に進出し、29軍と交戦している。
ガダルカナルでは、遮蔽物の無い浅瀬を渡渉中、アメリカ海兵隊が守備するイル川西岸機銃陣地からの一斉射撃を受け、交戦中に敵戦車部隊によって包囲殲滅された。
最期の状況
1942年8月18日にガダルカナル奪回作戦の尖兵として送り込まれ、同島タイボ岬から2昼夜を費やして情報不足の中ヘンダーソン飛行場の東方約3キロにあるイル川河口付近に進出。20日22時30分よりエドウィン・ポロック中佐率いる第1海兵連隊第2大隊のイル川西岸陣地に夜襲を決行。2度にわたる肉薄強襲を試みるも堅い機銃座と鉄条網に守られた陣地を抜くことができず夜襲を断念しイル川東岸の海岸付近に兵をまとめたところを翌朝イル川上流から迂回渡河してきた第1海兵連隊に東南方より包囲圧迫される形となり、21日15時(米国側記録では14時に主な戦闘は終了、負傷兵15名を捕虜としたとされている[2])、死者行方不明者777名を出したところで軍旗を奉焼し自決したとされている。なお、自決については、どうにか連隊本部に合流できた30名余りの負傷兵の誰もが連隊旗を所持せず(米国側の記録にも連隊旗の所在は記載が無い)、一木支隊長の最期を確認していないため日本側の戦闘詳報では「一五〇〇 連隊旗を奉焼し自決」となっているが、「自決」ではなく「戦死」との米側記録[3]も一部に見られ、確かな状況は分かっていない。
脚注
- ^ 姓について「いちぎ」とする説もある
- ^ Richard B.Frank,1990,Guadalcanal:The Definitive Account of the Landmark Battle;ISBN 0-394-58875-4
- ^ Michael T.Smith,2000,Bloody Ridge: The Battle That Saved Guadalcanal;ISBN 0-7434-6321-8