ララ物資
ララ物資(ららぶっし)とは、ララ(LARA ; Licensed Agencies for Relief in Asia:アジア救援公認団体)が提供していた日本向けの援助物資のこと。
概要
ララはアメリカ合衆国救済統制委員会が1946年6月に設置を認可した日本向け援助団体。1946年1月22日にアメリカサンフランシスコ在住の日系人浅野七之助が中心となって設立した「日本難民救済会」を母体としている。
当時アメリカにおける対外的な慈善活動は海外事業篤志団アメリカ協議会(American Counsel of Voluntary Agency for Work Abroad)が担っていたが、その対象地域は欧州のみであり日本は含まれていなかった。そのため、日本に対する援助物資輸送のために新たな援助団体を設立する必要があった。反日感情が残るなかでの「アジア救援公認団体」認可に際しては知日派のキリスト友会員の協力によるところが大きい。
支援物資は1946年11月から1952年6月までに行われ、重量にして3300万ポンド余の物資と、乳牛や2000頭を越える山羊などもあり、全体の割合は食糧75.3%、衣料19.7%、医薬品0.5%、その他4.4%となった。[1]多数の国にまたがり、多くの民間人、民間団体からの資金や物資の提供であったためその救援総額は不明であるが、推定で当時の400億円という莫大な金額であったと言われている[2]。
南北アメリカ大陸在住の日系人が寄附の中心であったが、日本国内での物資配付にあたっては連合国軍最高司令官総司令部の意向により日系人の関与について秘匿され、アメリカからの援助物資として配付された。
「アイスクリームにチョコレート、日本のみんなに下さった、ララのみなさんありがとう」という歌があったという[3]。
年表
- 1946年11月30日 - 第一便 (ハワード・スタンズペリー号) が横浜港に到着。[1]
- 1946年12月24日 - 東京都の永田町小学校において贈呈式を実施。
- 1947年7月31日 - 衆議院本会議において感謝決議(救援物資の寄贈に関し亜細亜救援公認團体に対する感謝決議)を全会一致で可決。[4][注 2]
- 1948年 - 東京、大阪、名古屋、京都、横浜、神戸の6大都市の約300ヶ所の保育所でララ物資による給食が開始。
- 1952年 - ララ物資の終了。
- (終了以降)
脚注
注釈
- ^ 記念碑についての詳しい内容は横浜市の中区の歴史を碑もとく絵地図を参照。
- ^ 議長は傍聴席にいる総司令部公衆衛生福祉部福祉課長・ネフ、ララ代表者バット、バット夫人、マキロップ、ローズ女史の5名を紹介。
出典
- ^ a b 奥須磨子 2007.
- ^ 五月女光弘 1996.
- ^ 『桑原征平 粋も甘いも』ABCラジオ、2011年5月12日放送。
- ^ 国立国会図書館 & 1947-07-31.
- ^ (外交史料館 & 2007-06)、第14回外交記録公開の日時確認は(外務省 & 1998-06-15)
参考文献
- 奥須磨子 (2007年). “ララ物資のはなし 敗戦直後日本人への救援” (PDF). 東西南北2007. 和光大学. 2012年4月22日閲覧。
- “第001回国会 本会議 第20号”. 国立国会図書館 (1947年7月31日). 2012年4月22日閲覧。
- “外交史料 Q&A (平成18年10月~19年3月) 平成19年6月号” (PDF). 外交史料館 (2007年6月). 2012年4月22日閲覧。(外交史料 Q&A 昭和戦後期に同様のQ&Aあり。)
- “「第14回外交記録公開」について”. 外務省 (1998年6月15日). 2012年4月22日閲覧。
- 五月女光弘 (1996年). “「国際協力ちょっといい話」(第二話 戦後の灰燼からの脱却)”. ODAちょっといい話. 外務省. 2012年4月22日閲覧。(1996年発行の小冊子、「ODAちょっといい話」に執筆者名あり。)
関連項目
外部リンク
- JA Circle - 敗戦、貧困、ララ物資:上
- 「ララ物資」の事を調べています。 - ララ物資に関しての他に、体験談もあり。