チベット・モンゴル相互承認条約

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。110.67.180.21 (会話) による 2016年1月30日 (土) 13:24個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (ボグド・ハーン、ガンデンポタンなど重複していた部分を整理し記事を読みやすくしました。)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

チベット・モンゴル相互承認条約書
1911年に建国されたモンゴル国の国旗
チベット国の国旗

チベット・モンゴル相互承認条約(ちべっともんごるそうごしょうにんじょうやく、蒙古西蔵条約蒙蔵条約とも)とは、1913年1月11日モンゴルウルガにおいてモンゴルのボグド・ハーン政権チベットガンデンポタンラサに本拠を置きダライ・ラマを元首とするチベットの政府)との間で締結された条約

経緯

辛亥革命により清国が滅亡すると旧領をめぐって中華民国とモンゴル・チベットは、それぞれの主張に基づいた国際的地位の確立を目指した。清国の旧領全域を自領とみなした中華民国に対し、モンゴルとチベットは中華民国から独立した国家としての国際承認を協力して得るために本条約を締結した。

チベット側の代表はアグワン・ドルジェフと二人のチベット人[1]であったが、ダライ・ラマ13世はイギリスの外交官にアグワン・ドルジェフに条約を締結しうる権威はなかったと語っている[2][3]

条約文が正式には公表されなかったことから存在自体が疑われていたが、1982年にモンゴル語の書面がモンゴル科学大学で発見された[1]

本条約における中国認識

モンゴルとチベットにおける清の皇帝観は、皇帝は文殊皇帝として中国を統治すると同時に仏教の保護者転輪聖王としてモンゴル、チベットを従えているというものであった。清国では中国本土は皇帝の直轄地であったもののチベット・モンゴルは冊封体制下の藩部であり、ダライラマや諸侯・モンゴル王公がそれぞれの領域を統治していたことから、皇帝に従属してはいても中国の支配をうけているという観念はなかった[4]

条約の文面

日本では1913年に本条約の条文部分が紹介されている[5]

第一条 西蔵は蒙古の牝豚の年に於て宣言せる独立自治権並に呼土克図の蒙古に対する統治権を承認す
第二条 蒙古は西蔵の独立自治権並に達頼刺嘛の西蔵に対する統治権を承認す
第三条 締盟両国は確乎たる基礎の上に仏教建設の手段方法を講ずべし
第四条 締盟両国の一国が内部或は外部の危険に脅かさる時は他の一国は之を援助すべし
第五条 締盟両国は相互に其一国人が宗教上或は政府の用務を帯びて他の一国内を旅行する時は之を保護援助すべし
第六条 締盟両国は両国人の商業取引並びに商業的使節に対し便宜の手段を採るべし
第七条 商業取引上の債権に就ては各当該国政府が之を是認したる場合に限り西蔵人により引き受けられ其他の要求に就ては之を受理せず。但し本条約発布以前に行はれたる商業取引上の要求は其重大なるものに限り各当該国政府に於て之を受理し部落に対し債務を要求するを得ず
第八条 本条約に対し今後条件追加の必要ある時締盟両国全権委員の協議により之を決す
第九条 本条約は調印の日即ち西蔵に於ては水鼠の年蒙古に於ては皇帝推戴の第二年西暦千九百十三年一月十一日より實施す

チベット語資料による前文・あとがきの紹介[6]

(前文)
チベット人と、モンゴル人の二国は文殊皇帝の支配のもとから離脱して中国 とは別々になった。自由・独立の政府を樹立し、モンゴル・チベット両政府は、互いに永らく宗教を共にしてきたという友誼と以前からの友人としての交誼を深めるために、自由を有するモンゴル国家の外務大臣代理ニクタビリクトゥ=ダーラマ・ラプテンと国軍総司令・大臣心得マンライバートル=ベイス=ダムディンスレン、チベットの保護者ダライラマの使者の、侍従・侍読・僧官長ロサンガワン、銀行頭取・迎賓員ガワンチェージン、秘書ゲンドゥンゲンツェン等が下記の如く承認したその内容は次のものである。

(以下条文)

(あとがき)
自由を有するモンゴル国政府の条約締結員の、外務大臣代理ビリクトゥ=ダーラマ=ラプテンおよび国軍総司令・心得マンライバートル・ベイス・ダムディンスレン、自由を有するチベット政府ダライラマの条約締結員の侍従・侍読・三品僧官ロサンガワンおよび銀行主管・知賓ガワンチェーズィン、秘書ゲンドゥンゲンツェン等が、書名と調印を行った。
モンゴル人の独立第二年十二月五日、チベットの水鼠年十二月五日に条目を終え本文件を概括して書き記した。

関連項目

チベット関連のとりきめ

モンゴル関連のとりきめ

近代チベット、モンゴル関連

脚注

  1. ^ a b Udo B. Barkmann, Geschichte der Mongolei, Bonn 1999, p380ff
  2. ^ Grunfeld, A. Tom. The Making of Modern Tibet (1996) East Gate Book, pg. 65.
  3. ^ Bell, Charles Alfred. Tibet: Past & present (1924) Oxford University Press, pp. 150-151
  4. ^ 酒井信彦 (2004年2月24日). “中国・中華は侵略用語である ― シナ侵略主義の論理構造 ―”. 財団法人・日本学協会『日本』 平成16年(2004)2月号. 日本ナショナリズム研究所. 2011年1月12日閲覧。
  5. ^ 条文本文は東亜同文会調査編纂部編『支那』第4巻第5号(東京:東亜同文会、1913年3月1日)45頁記載の訳分。条文本文は、引用に際して旧字体新字体に改められている。
  6. ^ Sha sgab pa, Bod kyi srid don rgyal rabs(An Advanced Political History of Tibet), Kalimpong, 1976. pp.633-635より翻訳、
  7. ^ ヤルタ協定”. 日本外交主要文書・年表(1),56‐57頁.条約集第24集第4巻. 東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室 (1945年2月11日). 2011年1月10日閲覧。

外部リンク