ジョン・ボウリング

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サー・ジョン・ボウリング
Sir John Bowring
ジョン・ボウリング(1826年)
生年月日 (1792-10-17) 1792年10月17日
出生地 イギリスの旗 イギリスイングランドの旗 イングランドエクセター
没年月日 (1872-11-23) 1872年11月23日(80歳没)
死没地 イギリスの旗 イギリスイングランドの旗 イングランドクレアモント
所属政党 急進派 (イギリスの政党)英語版
配偶者 マリア・ルーウィン(1816年 – 1858年死別)
デボラ・キャスル(1860年 - )
子女 ジョン・チャールズ・ボウリング英語版(昆虫学者)
ルーウィン・ベンサム・ボウリング英語版(英領インドの官僚)
エドガー・アルフレッド・ボウリング英語版(政治家、翻訳家)
宗教 ユニテリアン主義

第4代香港総督
在任期間 1854年4月13日 - 1859年9月9日

選挙区 キルマーノック・バラズ
在任期間 1835年 - 1837年
選挙区 ボルトン
在任期間 1841年 - 1849年
同時当選者
ピーター・エインズワース(1841年 – 1847年)
ウィリアム・ボリング(1847年 – 1848年)
スティーヴン・ブレア(1848年 – 1849年)
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サー・ジョン・ボウリングバウリング[1][2]英語: Sir John Bowring [ˈbaʊərɪŋ][3]1792年10月17日 - 1872年11月23日)は、イギリス政治経済学者旅行家翻訳家政治家。第4代香港総督。漢字表記は宝寧宝霊(マンダリン風)もしくは包令(広東語風)。

経歴

生い立ち

1792年10月17日、エクセター生まれ。父は中国を市場とした羊毛商のチャールズ・ボウリング(1769年 - 1856年)。母のサラ・ジェーン・アン(1828年没)は、コーンウォール州セント・アイブスの牧師トーマス・レーンの娘。最終学歴はモートンハムステッドユニテリアン学校。13歳の時に父親の会社で働き始めた。一時はユニテリアンの牧師になることを希望していた。イギリスでは、ボウリングが21歳になるまでユニテリアン信仰の布教は違法とされていた。

ボウリングは、半島戦争スペイン独立戦争)で、イギリス軍の契約業者となる。まず、1811年から4年の間はミルフォード商会(Milford & Co.)の事務員として、さまざまな言語を習得し始めた。

その後は幅広く旅をし、1822年にはスパイの疑いでブローニュ=シュル=メールで6週間投獄された。

政治経済学者として

政治家・実業家として

広東時代

香港総督

第二次アヘン戦争と晩年

私生活

最初の妻のマリア(1793年または1794年 - 1858年)とは、ロンドンに移住した後の1818年に結婚し、5人の息子と4人の娘(マリア、ジョン、フレデリック、ルウィン、エドガー、チャールズ、イーディス、エミリー、ガートルード)をもうけたが、1858年9月にアロー戦争下の香港ヒ素中毒により死亡した。

1860年、後妻のデボラ・キャッスル(1816年 - 1902年)と結婚したが、子供はもうけなかった。1902年7月、エクセターで死去。彼女は著名なユニテリアンのクリスチャンであり、女性参政権運動の支持者であった。

1872年11月23日、ジョン・ボウリングは80歳で死去した。

栄誉

脚注

外部リンク