ジョン・F・ラウダー

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ジョン・F・ラウダー: John Frederic Lowder1843年2月15日 - 1902年2月27日)は、幕末から明治時代にかけて日本で活躍したイギリス法律家である。お雇い外国人の一人[1]

経歴・人物[編集]

1860年 17歳の時、イギリス外務省の日本語通訳生の試験を受けるが、一度失敗し再試験にて合格する。同年、離英する[2]

1861年(文久元年)に来日。イギリス領事館の職員(通訳生)を務める[3][4][5]。同年7月5日には、水戸浪士がイギリス公使館を襲撃した東禅寺事件に遭遇するが、ピストルで応戦[2]

1862年9月、アメリカ・オランダ改革派教会のアメリカ人宣教師サミュエル・ロビンス・ブラウンの長女ジュリアと結婚。翌日、生麦事件が起きる[2]

その後、長崎領事館に務める。1864年には、長州と四国連合艦隊による下関戦争の講和談判に派遣され通訳官を務めた[2][5]。一方、この戦闘で惨敗した長州藩は講和使節の使者として高杉晋作、伊藤俊輔(後の伊藤博文)、井上聞多(志道聞多、井上馨)を任じて、通訳は伊藤、井上が務めている[6]

1865年3月には、高杉晋作と伊藤俊輔(後の伊藤博文)が長州藩からイギリス渡航を許可され、下関に寄港したイギリス商船ユニオン号に便乗して長崎へ向かった。長崎に着いた高杉と伊藤は、トーマス・グラバーとグラバーの邸宅で接触し、イギリスへの渡航を頼むが、渡航準備が整うまで、長崎イギリス領事であったラウダ―が2人に英語を教え、自宅で世話をした。ラウダーは「長州が大変な時に、洋行すべきではない」と2人の渡航を思い留まるよう諭し、グラバーも賛同し、渡航を断念することとなった。また、この時に下関の開港を勧め、ラウダ―が用意した貿易関連の書類を抱え、2人は下関に戻っている[7]

次いで、兵庫(神戸)と大阪(川口居留地)のイギリス領事館で副領事を務めた[5]

1869年2月には、警備官のジョン・フィッツジェラルド(John Fitzgerald)を伴い新潟寺町の勝楽寺に領事館を開設し新潟代理領事(最初の新潟イギリス領事)となる。半年後の同年8月には、横浜の領事館へ移り、横浜領事を務めた[2][5]

1870年(明治3年)、賜暇で帰国する。その間に法廷弁護士の資格を取得[2]

1872年(明治5年)に再来日するが、外交官には戻らず、明治政府に雇用され、大蔵省の法律顧問を務め、横浜税関の規則の改正に携わった[3][4]。また、同時期に諸省の法律顧問も務めているが[3][4]、税関顧問在勤中の1877年には、ハートレーによるアヘンの輸入を条約違反として摘発し、税関長とともにイギリス領事裁判所に提訴した。その間に、司法省の顧問も兼務した[2]。1886年には、ノルマントン号事件で日本政府側の弁護士を務めた。1887年、政府から勲三等旭日中綬章を贈られる[2]

1889年以降は、法廷弁護士として活躍する[2]

1902年(明治35年)に日本で死去した[3][4]

脚注[編集]

  1. ^ Find a Grave 『John Frederic Lowder』
  2. ^ a b c d e f g h i yomimonoya.com 『ジョン・フィレデリック・ラウダー』
  3. ^ a b c d 20世紀西洋人名事典
  4. ^ a b c d 日本大百科全書
  5. ^ a b c d 山田耕太「開港場新潟に来た外国人居留者」『敬和学園大学人文社会科学研究所年報』第20号、敬和学園大学、2022年6月、57-84頁、ISSN 2432-1869 
  6. ^ 人物事典風雲伝 『井上馨 (志道聞多、井上聞多) 詳細版 明治維新の原動力となった長州藩の偉人』
  7. ^ 高杉晋作Museum 『グラバー邸』

外部リンク[編集]