ジャン=ミシェル・バスキア

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ジャン=ミシェル・バスキア
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ジャン=ミシェル・バスキア
誕生日 (1960-12-22) 1960年12月22日
死没年 (1988-08-12) 1988年8月12日(27歳没)
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
影響を受けた
芸術家
サイ・トゥオンブリージャクソン・ポロックジャスパー・ジョーンズフランツ・クラインパブロ・ピカソレオナルド・ダ・ヴィンチ
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ジャン=ミシェル・バスキアJean-Michel Basquiat1960年12月22日 - 1988年8月12日)はニューヨークブルックリンで生まれたアメリカ画家グラフィティ・アートをモチーフにした作品で知られる。苗字の発音はフランス語の名前なので本来は語尾の t は発音されない[1]ハイチ系アメリカ人

来歴

ジャン=ミシェル・バスキア (1984)

プエルトリコ系移民の母親とハイチ系移民の父親の間に生まれ、幼い頃から絵を描き、芸術的な活動をするように母親から奨励されていた。17歳の頃から地下鉄、スラム街地区の壁などにスプレーペインティングを始める。活動を続けるうちに高校を中退したバスキアは、Tシャツやポストカードを売りながら生計を立てていた。徐々に彼の描いたスプレーペインティングは評価され、キース・ヘリングバーバラ・クルーガーの助力でニューヨークで個展を開くようになった。また、絵の中に描かれる王冠は彼のトレードマークとなっている。一時結成していたノイズバンド「GRAY」の名は交通事故のさい母親が病室に持ち込んだ本が由来している。

1983年にはアンディ・ウォーホルと知り合い、作品を共同制作するようにもなる。1987年のウォーホルの死まで2人の互いに刺激しあう関係は続いたが、バスキアは徐々にヘロインなどの薬物依存症に陥り、妄想癖が見られるようになった。そしてウォーホルの死によりさらに孤独を深めると共に、ますますヘロインに溺れていった。

1988年、ヘロインのオーバードースにより27歳で死去。

映画化

生涯が映画『バスキア』として1996年にアメリカで映画化され、死後もその生涯と作品は注目を浴びる。監督はジュリアン・シュナーベルジェフリー・ライトがバスキアを演じた。

タムラ・デイビスが監督したドキュメンタリーフィルム『バスキアのすべて』が2010年12月、日本で公開された。

脚注

関連項目

外部リンク