サムイェー寺

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サムイェ寺
Gilt roof of the Jokhang
Gilt roof of the Jokhang
チベット語名
チベット文字

བསམ་ཡས

ワイリー bsam-yas
蔵文拼音 sam-yä
中国語名
繁体字 桑耶寺
サムイェー寺の位置(チベット自治区内)
サムイェー寺
サムイェー寺
中国内の位置
座標: 北緯29度19分35秒 東経91度30分10秒 / 北緯29.32639度 東経91.50278度 / 29.32639; 91.50278
寺院情報
所在地 チベット自治区山南地区ダナン県
創設者 パドマサンバヴァ
宗教 チベット仏教
宗派 ニンマ派
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防壁
遠景

サムイェー寺チベット語:བསམ་ཡས bsam yas中国語:桑耶寺)はチベットに建立された最初の仏教僧院

概要

西暦775年頃、ティソン・デツェン王の後援で、7世紀にソンツェン・ガンポ王が導入して以来廃れていた仏教の再興を図るために建てられた。山南地区ダナン県に位置する。

河北省承徳市普寧寺はこの寺をモデルにしている。

歴史

建立

伝承によれば、インドの僧シャーンタラクシタが彼の経典中心の仏教を布教した際に寺院建立を最初に計画した。この場所が縁起がよいとして建設を開始するも、必ず途中で寺院は崩れてしまっていた。 恐れた建築労働者たちは近くの川の魔物か悪い気がこれを引き起こしていると信じた。

しかしパドマサンバヴァ北インドからここに着くと、寺院建設を妨げている問題のエネルギー(マモ:魔物)を調伏した。ダライラマ5世によれば(Pearlman, 2002: p.18)、パドマサンバヴァはタントラ的なヴァジュラ・キラヤ(プルパ、プルパ金剛と訳す。漢名:普巴金剛、金剛儒童)の修法や踊りをしてティソン・デツェン王の擁護と資金の援助を受け、シャーンタラクシタは実務的な問題を解決してサムイェー寺を建立したという。

この伝承は、なぜタントラ(密教)中心のパドマサンバヴァの教えが、経典(顕教)中心のシャーンタラクシタの教えよりも優勢を得たかということの説明になる。また、サムイェー寺の建立がチベット仏教の独自の派、ニンマ派の始まりとなる。

サムイェー宗論

サムイェー寺は、インド仏教と中国仏教の宗論が行われ、インド仏教が勝利することでチベット仏教の方向性を決定付けることになった事件、「サムイェー宗論」の舞台としても知られる。

近現代

サムイェー寺は文化大革命により1980年代大規模な破壊を受けた。今日でも宗教活動は続けられており、重要な巡礼目的地にして、観光地である。1996年に中華人民共和国の全国重点文物保護単位に指定された。

寺院

サムイェー寺の建物配置は巨大な曼荼羅を模す。本堂は須弥山を現し、四隅にある他の建物と本堂の東西南北は大陸と仏教宇宙の他の造作を現す。

本堂は数多くの宗教壁画や仏像、重要な歴史的遺物もある。この寺に多くのチベット人仏教徒が巡礼に訪れ、それは何週間もかかる場合もある。

参考文献

  • Rene de Nebesky-Wojkowitz, Tibetan Religious Dances (The Hague:Mouton, 1976)
  • Yeshe Tsogyel, The Life and Liberation of Padmasambhava, 2 vols., trans. Kenneth Douglas and Gwendolyn Bays (Berkeley: Dharma Publishing, 1978)
  • Pearlman, Ellen (2002). Tibetan Sacred Dance: a journey into the religious and folk traditions. Rochester, Vermont, USA: Inner Traditions. ISBN 0-89281-918-9

関連項目

外部リンク