サキャ・パンディタ
クンガ・ギェンツェン | |
---|---|
1182年 - 1251年 | |
尊称 | サキャ・パンディタ |
生地 | サキャ |
没地 | 蘭州 |
宗派 | サキャ派 |
寺院 | サキャ寺 |
師 | タクパ・ギェンツェン |
弟子 | パクパ、チャクナ |
著作 | 『三律儀分別』、『量明蔵』、『善説宝蔵』など |
サキャ・パンディタ・クンガ・ギェンツェン(チベット文字:ས་སྐྱ་པཎྜི་ཏ་ཀུན་དགའ་རྒྱལ་མཚན་།、Sa skya paṇḍita kun dga' rgyal mtshan; 漢字表記: 薩斯迦班弥怛功嘉監蔵、1182年 - 1251年)は、チベット仏教サキャ派(赤帽派)の五先師[注 1]の4番目に数えられる宗教指導者。略して「サパン(Sa paṇ)」とも。中世チベットの有力氏族であるコン氏('Khon-rigs)の出身。俗名はパンデン・トンドゥプ(dPal ldan don grub)[2]。
略歴
[編集]サキャ派の興隆
[編集]サキャ派はニンマ派・カギュ派・ゲルク派とともに現在チベット仏教の4大宗派に数えられる宗派で、その起源はコンチョク・ギェンポ(dKon-mchog rgyal-po)がサキャの地にサキャ寺(薩伽寺)を建立した1073年にさかのぼる。コンチョク・ギェンポの子のサチェン・クンガ・ニンポ(Sa-chen kun-dga' snying-po)が『密教概論』を著して、「道果説(ラムデー)」を中心とするサキャ派の教義の基盤を作り、普及することとなる。クンガ・ニンポ入寂(1172年)後、サキャ寺を主宰したのはその子のジェツン・タクパ・ギェンツェン(rJe-btsun grags-pa rgyal-mtshan)であり、タクパ・ギェンツェンの弟であるパルチェン・オーポ(dPal chen 'od po)がクンガ・ギェンツェンの父である[3]。
チベット一の学僧
[編集]クンガ・ギェンツェンは幼いときから、伯父のタクパ・ギェンツェンから梵行優婆塞戒を受け、顕密両教を学んだ[4]。さらにサキャ寺の学僧から論理学・般若・宗議などの教誡を受け、18歳の時に夢の中で世親(ヴァスバンドゥ)に会い、倶舎を学んだとされる[4]。
23歳の時、北インドカシミールの高僧のカチェ・パンチェン・シャーキャシュリーパドラ(Kha che Paṇ chen Śākyaśrībhadra、1127年 - 1225年)に会って教えを受け、1208年に具足戒を受けた。また彼の弟子にサンガシュリー(Saṅghaśrī)、スガタシュリー(Sugataśrī)、ダーナシーラ(Dānaśīla)らに諸法を学んだ[4]。さらにインドの外道者と論争して勝つなどで名声を得、五明に通じた当時第一の学者であるとして「サキャ・パンディタ(サキャの博士)」と称されるようになった。著書に『三律儀分別(sdom gsum rab dbye)』、『量明蔵(thad ma rig pa'i gter)』、『善説宝蔵(legs pan bshad pa rin po che'i gter)』などがある[4]。
モンゴル帝国との交渉
[編集]この頃、モンゴル帝国のカアン(皇帝)オゴデイは、第二皇子のコデンをチベット遠征に派遣した。1240年にコデン軍の将のドロアダイ(rDo rta nag)[5]が兵を率いて中央チベットに侵入し、ラサの東北ラデンで僧俗数百人を虐殺し、ギェンラカン寺を焼くなどの猛威を振るった。9世紀の吐蕃の滅亡後、統一王朝が現れず、分裂していたチベット社会は、モンゴル軍の突然の侵入に驚き、ヤルルン(Yar klung)家のデシ・ジョガ(sDe srid jo dga')とツェンパ(Tshal pa)のクンガドルジェ(Kun dga' rdo rje)を請和使として降伏を申し入れたが、その結果は不明である[2]。1241年のオゴデイ崩御により、モンゴルのチベット計略は一時中断したが、コデンはその後もチベット支配を試み、当地の高僧として知られたサキャ・パンディタの来訪を招請した。サキャ・パンディタは甥のロドゥ・ギェンツェン(bLo gros rgyal mtshan、通称の「パクパ('Phags pa)」で有名、当時11歳)とチャクナ・ドルジェ(チャクナ、6歳)を伴って1244年にサキャを出発。1年余の旅を経て、1246年にコデンの封地である涼州に到着したが、コデンは同年に開催されていたクリルタイ[注 2]に参加するためで留守であった。コデンは1247年に封地に帰って、サキャ・パンディタに謁見した[2]。この時サキャ・パンディタは、皇子に『呼金剛』の灌頂と講義を行ったという[4]。こうしてモンゴルによるチベットの武力征服は回避され、平和裡にチベットはモンゴルに従うこととなった。以後、サキャ・パンディタは皇子の侍僧として仏教の普及に努め、1251年に涼州東方の蘭州トゥルペー・デ(sprul pa'i sde)寺で入寂した[2]。享年70。
甥のパクパはその後1253年に皇弟クビライに謁してその侍僧となり、後にクビライがカアンとして即位すると国師となって、パスパ文字を作成。その功績で帝師・大宝法王となり、サキャ派によるチベット支配および、チベット仏教がモンゴルに庇護されるきっかけとなった。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 『東洋仏教人名事典』(斎藤昭俊・李載昌編、新人物往来社、1989年)ISBN 978-4404015914
- 「サキャ・パンチェン・クンガ・ギェンツェン」
- 『チベット密教の神秘―快楽の空・智慧の海』(正木晃・立川武蔵編、学習研究社、1997年)ISBN 978-4054006843
- 『モンゴル帝国から大清帝国へ』(岡田英弘、藤原書店、2010年)ISBN 978-4894347724
- 『モンゴル帝国と大元ウルス』(杉山正明、京都大学学術出版会、2004年)
関連文献
[編集]- 『サキャ格言集』(今枝由郎訳、岩波文庫、2002年)、ISBN 400320901X