コンスタンチン・プリコフスキー

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コンスタンチン・プリコフスキー
Константин Борисович Пуликовский
コンスタンチン・プリコフスキー(左)とウラジーミル・プーチン(2000年5月26日撮影)
生年月日 (1948-02-09) 1948年2月9日
出生地 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦 沿海地方ウスリースク
出身校 ウリヤノフスク高等戦車指揮学校、装甲戦車兵軍事アカデミー、参謀本部軍事アカデミー
称号 中将

在任期間 2005年12月5日 - 2008年9月2日

在任期間 2000年5月18日 - 2005年11月14日
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コンスタンチン・ボリソヴィチ・プリコフスキーロシア語: Константин Борисович Пуликовский、ラテン文字表記の例:Konstantin Borisovich Pulikovskii1948年2月9日 - )は、ロシア連邦軍人政治家退役中将2000年から2005年まで、極東連邦管区大統領全権代表。2005年から2007年まで、連邦環境・技術・原子力監督庁(ロステフナドゾル)長官。

経歴・人物

1948年ロシア極東沿海州ウスリースクに生まれる。1970年、ウリヤノフスク高等戦車指揮学校を優秀で卒業。1982年、装甲戦車兵軍事アカデミーを優秀で卒業。1992年、参謀本部軍事アカデミーを金メダルで卒業。

1970年1982年、白ロシア軍管区で勤務。1982年~1992年沿バルト軍管区で戦車連隊長、師団長として勤務。1992年~1993年、トルケスタン軍管区で勤務。

1993年、北カフカーズ軍管区副司令官。1994年1996年第一次チェチェン紛争に従軍し、方面集団、連邦軍臨時統合集団を指揮する。1996年~1998年、北カフカーズ軍管区副司令官。ハサヴユルト協定署名後、退役。

1998年~2000年クラスノダールの行政機関で働く。

2000年5月18日ウラジーミル・プーチン大統領の連邦管区創設に伴い、極東連邦管区大統領全権代表に任命される。極東は、モスクワ中央から離れていることもあり、中央の威令が届かないことから、武官出身のシロヴィキのプリコフスキーが任命された。プリコフスキーは、帝政ロシアの極東総督を務めたニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキーを目標に上げている。『北朝鮮との付き合い方』を小泉前首相に伝授。

2001年金正日が訪露した際、ロシア側を代表して随行したことで日本のメディアにも取り上げられた。

2005年11月、大統領全権代表を退任。同年12月、連邦環境・技術・原子力監督庁長官に任命。

パーソナル

コンスタンチン・プリコフスキー(右)

妻帯。息子のアレクセイは連邦軍将校で、1995年にチェチェンで戦死。

四等「祖国に対する貢献に対する」勲章を受章。

金正日の後継者について

2001年極東連邦管区大統領全権代表のときに、金正日の訪露に随行した。このときに、金正日から「自分の子供の内、金正恩金汝貞が政治に関心を示しており、これから二人のどちらかを教育して後継者にするつもりだ」と聞かされたと語っている[1]

脚注

  1. ^ NHKスペシャル「キム・ジョンウン 北朝鮮の内幕」 2012年5月放映

外部リンク

先代
-
連邦環境・技術・原子力監督庁長官
2000年 - 2005年
次代
ニコライ・クーチン
先代
-
極東連邦管区大統領全権代表
初代:2000年 - 2005年
次代
カミーリ・イスハコフ