ゲオルク・フォン・ヘルトリング

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ゲオルク・フォン・ヘルトリング
Georg von Hertling


ドイツ帝国
第7代 帝国宰相
任期 1917年10月31日1918年9月30日

出生 1843年8月31日
ダルムシュタット
死去 (1919-01-04) 1919年1月4日(75歳没)
バイエルン、ルーフォルデインク
政党 中央党

ゲオルク・フリードリヒ・フォン・ヘルトリング伯爵Georg von Hertling, 1843年8月31日1919年1月4日)は、ドイツ政治家バイエルン王国首相を経て、1917年から1918年までドイツ帝国の第7代帝国宰相を務めた。もとは男爵で1914年に伯爵に陞爵した。

バイエルン議会の最大政党である中央党の領袖として、バイエルン摂政ルイトポルトによって1912年バイエルン首相に指名された。第一次世界大戦が勃発すると、帝国宰相であったテオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェークを支持するが、1917年中央党の指導者であるマティアス・エルツベルガーは、戦争に敗北している状態を知り、ベートマン=ホルヴェークを非難した。戦争継続を目論むエーリヒ・ルーデンドルフ参謀次長はベートマンの弱腰ぶりからベートマン退陣に同調し、1917年ベートマンは帝国宰相を辞任した。ゲオルク・ミヒャエリスを間において、1917年10月31日ヘルトリングは、帝国宰相・プロイセン首相に就任した。時すでに75歳の老齢であり、その保守主義も相まって、総司令部を統御することは適わず、パウル・フォン・ヒンデンブルク元帥とルーデンドルフが決定した政策に影響を与えることはできなかった。

カトリック教徒としては、哲学教授であり、カトリック教徒の友愛組織であるアスカニア=ブルグンディアカトリック学生団ドイツ語版を結成している。女優のギラ・フォン・ヴァイターハウンゼンドイツ語版は、ヘルトリングの曾孫に当たる。

先代
クレメンス・フォン・ポーデヴィルス=デュールミッツ
バイエルン王国首相
1912年1917年
次代
オットー・フォン・ダンドル
先代
ゲオルク・ミヒャエリス
ドイツ帝国宰相
1917年1918年
次代
マックス・フォン・バーデン
先代
ゲオルク・ミヒャエリス
プロイセン王国首相
1917年1918年
次代
マックス・フォン・バーデン