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家族協約

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フランス王国
スペイン王国
フランスとスペインは両方ともブルボン家の君主を持つ。

家族協約(かぞくきょうやく、フランス語: Pacte de Famille フランス語発音: [pakt də famij]スペイン語: Pacto de Familia)は、フランス王国スペイン王国ブルボン家君主の間で三度締結された同盟[1]

第一次家族協約

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エスコリアル条約
通称・略称 第一次家族協約
署名 1733年11月7日
締約国 スペイン王フェリペ5世とフランス王ルイ15世
主な内容 フランス王国スペイン王国の同盟
関連条約 ユトレヒト条約
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第一次家族協約スペイン語: Primer Pacto de Familia)は、1733年11月7日エスコリアル条約英語: Treaty of the Escorial)として締結された[1]、スペイン王フェリペ5世とフランス王ルイ15世の間の条約。

概要

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フェリペ5世はフランス王ルイ14世の孫であり、1700年にスペイン・ハプスブルク家が断絶すると、ブルボン家初のスペイン王として即位した[1]

彼は長いスペイン継承戦争を経て、ユトレヒト条約でスペインとフランスが合邦しないことを前提に王位を認められた。さらに、イタリアにおけるスペイン領はハプスブルク家に割譲された。

ルイ15世はフェリペ5世の甥で、ポーランドスタニスワフ1世の娘マリー・レクザンスカと結婚していた。この結婚による同盟で、フランスは1733年のポーランド継承戦争に巻き込まれた。

フェリペ5世は、この戦争に乗じてイタリアの失われた領土を取り戻そうとした。彼はフランスとの同盟を選んだが、ルイ15世との血縁関係により、この同盟は「家族協約」として知られるようになった。

スタニスワフ1世の復位には失敗したが、ルイ15世はロレーヌ公国を獲得、フェリペ5世は三男カルロスのためにナポリ王国シチリア王国を勝ち得た。

第二次家族協約

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フォンテーヌブロー条約(1743年)
通称・略称 第二次家族協約
署名 1743年10月25日
署名場所 フォンテーヌブロー
締約国 スペイン王フェリペ5世とフランス王ルイ15世
主な内容 フランス王国スペイン王国の同盟
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第二次家族協約は、1743年10月25日フォンテーヌブロー条約英語: Treaty of Fontainebleau)で成立し[1]、第一次と同じくスペイン王フェリペ5世とフランス王ルイ15世の間で締結された。

概要

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この協約はオーストリア継承戦争の最中で締結され、条項のほとんどが戦争遂行に関連した[1]

同盟により、1748年にフェリペ5世の四男フェリペパルマ、ピアチェンツァおよびグアスタッラ公になり、スペインのイタリアにおける影響力が増した。

第三次家族協約

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パリ条約(1761年)
通称・略称 第三次家族協約
署名 1761年8月15日
署名場所 パリ
締約国 スペイン王カルロス3世とフランス王ルイ15世
主な内容 フランス王国スペイン王国の同盟
関連条約 パリ条約 (1763年)
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第三次家族協約は、1761年8月15日、スペイン王カルロス3世とフランス王ルイ15世の間のパリ条約により成立した[1]

概要

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カルロス3世はフェリペ5世の三男であり、ルイ15世のいとこにあたる。

1761年時点ではフランスは七年戦争グレートブリテン王国と戦っている。カルロス3世の同盟政策は先代のフェルナンド6世の中立政策を逆転した。

協約ではスペインの同盟国ナポリ王国トスカーナ大公国も含まれていた。

しかし、スペインの参戦はイギリスによるマニラ侵攻キューバ侵攻をもたらし、1763年のパリ条約で回復するもスペイン領フロリダをイギリスに割譲せざるを得なかった。

その後のフランス・スペイン協約

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脚注

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  1. ^ a b c d e f François, Velde (1998年6月12日). “The Pacte de Famille of 1761”. 2017年5月20日閲覧。

外部リンク

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