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このウィキでページ「休暇はパリで」は見つかりませんでした。以下の検索結果も参照してください。
- vacances)は、主としてフランス人の長期休暇の過ごし方、もしくはそれを意識した長期休暇の呼称。 フランスの法律では、休暇は連続5週間まで取得可能となっている。夏季には企業経営者から労働者(従業員)まで、数週間のヴァカンスを、子供たちも2ヶ月間のヴァカンスをとり、思い思いの過ごし方で楽しむ。フランス人にとっては…7キロバイト (811 語) - 2023年10月23日 (月) 08:50
- れる連休が設定されることがある。イースター休暇は国により異なり、ポーランドでは長期休暇がとられるのに対し、チェコではイースターの翌日の月曜日のみが休日であることからバカンスと関連づける人は少ない。また、ルーマニアではイースターの休暇には、黒海沿岸の行楽地はまだ寒いことから山へ行く人が多い。…9キロバイト (1,164 語) - 2023年12月18日 (月) 11:05
- キーナン・ウィン (カテゴリ 膵癌で亡くなった人物)(1957) 愛する時と死する時 A Time to Love and a Time to Die (1958) 休暇はパリで The Perfect Furlough (1958) 私はそんな女 That Kind of Woman (1959) 波も涙も暖かい A Hole in the Head…8キロバイト (786 語) - 2022年10月29日 (土) 05:46
- マルセル・ダリオ (カテゴリ パリ出身の人物)筋金を入れろ(1955年) 陽はまた昇る(1957年) チャイナ・ゲイト(1957年) 壮烈!外人部隊(1958年) 休暇はパリで(1958年) 断絶の嵐(1959年) 夜を楽しく(1959年) カンカン(1960年) わが恋は終りぬ(1960年) 墓場なき野郎ども(1960年) 四時の悪魔(1961年) 大盗賊(1961年)…7キロバイト (670 語) - 2023年10月31日 (火) 06:05
- 冬休み(ふゆやすみ)とは、冬の長期休暇のことである。学校における正式な名称では、冬季休業(とうききゅうぎょう)ということが多い。3学期制の学校では2学期と3学期の間におかれる。 小学校から高校まででは、概ね、曜日の配列によるが、12月21日(12月下旬)から1月6日までが一般的である。 なかには、曜日配列によっては…14キロバイト (2,075 語) - 2024年2月16日 (金) 10:18
- 、プライムタイム・エミー賞を2度受賞した。全米撮影監督協会の会員だった。 1995年4月12日、82歳で死去。 西部の渡り者 The Saga of Hemp Brown (1958) 休暇はパリで The Perfect Furlough (1958) ピエドラスブランカスの怪物 The Monster…8キロバイト (753 語) - 2022年3月7日 (月) 10:09
- フレデリック・ショパン (カテゴリ 19世紀に結核で死亡した人物)28歳:サンドとの交際が始まる。マヨルカ島に滞在。 1839年 - 29歳:冬はパリ、夏はノアンのサンドの別荘で暮らす生活が始まる。 1844年 - 34歳:冬、インフルエンザにかかる。 1847年 - 37歳:ジョルジュ・サンドとの別れ。 1848年 - 38歳:2月26日、パリでの最後の演奏会。イギリスへ演奏旅行。 1849年…141キロバイト (18,233 語) - 2024年5月12日 (日) 21:09
- マジェスティック(ナンシー・チャヴェス) ハイ・シャパラル 馬上の二人(エレナ) 砂漠の剣 アラモ(フラカ) クレオパトラ 狂った野獣 荒野の悪魔 休暇はパリで 生れながらの無宿者 コマンチ族 ^ a b Lamparski, Richard (1989). Whatever became of-- ?…2キロバイト (163 語) - 2021年5月6日 (木) 22:04
- エレイン・ストリッチ (カテゴリ 胃癌で亡くなった人物)(1956) 三人のあらくれ者 Three Violent People (1956) 武器よさらば A Farewell to Arms (1957) 休暇はパリで The Perfect Furlough (1958) Kiss Her Goodbye (1959) Who Killed Teddy Bear…7キロバイト (636 語) - 2023年11月14日 (火) 00:07
- はプロイセンにアルザス・ロレーヌを割譲することで和議が成立し、パリで蜂起していたパリ・コミューンも鎮圧されて、第三共和政が打ち立てられた。 第三共和政は当初は安定しなかったものの、1880年代に入ると穏健共和派の指導の下で…178キロバイト (22,286 語) - 2024年5月9日 (木) 03:23
- 『小説家の休暇』(しょうせつかのきゅうか)は、三島由紀夫の日記形式の評論・随筆。1955年(昭和30年)6月24日から8月4日まで約1か月半の日記の体裁をとりつつ、天候や私的な日常記述や時事はごく僅かで、読書感想や観劇評、随想や芸術観などが主体となり、最後の日は日本文化論を展開している。発表は書き下ろしで…33キロバイト (4,681 語) - 2024年1月21日 (日) 14:22
- であった。この時の処刑の写真は新聞で発表されている。 なおフランスでは死刑執行人はムッシュ・ド・パリ(本来はパリのみ)が執り行うことになっていたが、1870年11月以降は死刑執行人がフランス全土で1人だけになった。また死刑執行人の氏名は公開されており、プライバシーの観念が薄かった時代には…70キロバイト (3,842 語) - 2024年3月6日 (水) 11:10
- ダカール・ラリー (パリ・ダカールラリーからのリダイレクト)が主催する。「世界一過酷なモータースポーツ競技」とも言われている。 元々はフランスの首都パリをスタートし、セネガルの首都ダカールでゴールするという形で主にアフリカ大陸で競技が行われ、パリ・ダカール・ラリー(Paris-Dakar Rally、日本での略称「パリダカ」)の名称が使用されていた。1992年にゴール地点がダカール…194キロバイト (19,445 語) - 2024年4月19日 (金) 17:02
- リヒャルト・ワーグナー (カテゴリ Reflistで3列を指定しているページ)であり、「ドイツのライン」「ラインの守り」「ドイツの歌」などの愛国歌謡が作られたが、ワーグナーは共感しなかった。 偽名で発表したエッセイ「ドイツ人のパリ受難記」(1841)では「パリでドイツ人であることは総じてきわめて不快である」と書き、ドイツ人は社交界から排除されているのに対して、パリ…89キロバイト (12,719 語) - 2024年5月13日 (月) 07:53
- 織するなどして抵抗を続けた。だが一方で1月末にはプロイセン軍のパリ市内への砲撃が始まり、敗色濃厚となる中で講和が模索されはじめた。1871年2月8日に議会選挙(フランス語版、英語版)が行われ、講和を主張する王党派が議席の多数をしめた。パリでなくボルドーで2月12日から国民議会が開催されると、2月17…97キロバイト (13,676 語) - 2024年4月9日 (火) 12:51
- エミール・ゾラ (カテゴリ パリ出身の人物)パリの自宅に戻ってきた翌日に、一酸化炭素中毒によって亡くなる。当時は事故として処理されたが、煙突が反ドレフュス派によって故意に塞がれていたという可能性も有力である。遺骸はパンテオンに眠る。 ゾラがメダンに造った別荘には…24キロバイト (3,212 語) - 2024年4月21日 (日) 11:08
- は、修道院に新しい建物を建て写字室を寄贈した。ここでは修道女たちが多くの本を執筆した。798年、シェルでカール大帝とその家族が休暇をすごした。 ルイ6世時代、シェルはコミューンとなった。百年戦争では町と修道院は略奪の対象となり、飢饉が一帯を襲った。シェルから逃亡した修道女たちはパリ…9キロバイト (1,204 語) - 2022年10月29日 (土) 01:55
- フランス映画(フランスえいが)とは、フランスの資本と人材によって製作された映画のこと。 映画というメディアの創成期において、フランス映画の技術は世界一を誇っていた。映画が発明されたのがフランスであったためである。1895年12月28日、リュミエール兄弟がシネマトグラフを公開した。1895年にパリで公開されたリュミエール兄弟のL'Arrivée…12キロバイト (1,614 語) - 2023年8月23日 (水) 22:34
- サン=ドニ (カテゴリ パリのディオニュシウス)は、パリメトロ12号線プルードン-ガルディヌ駅によってフロン・ポピュレール広場へ行ける設備が整えられている。ラ・プレーヌ・サン=ドニ地区南部はパリ、オーベルヴィリエとのアクセスがよりよい。トラム8号線は最終的に地区を灌漑し、オーベルヴィリエのコンドルセ・キャンパスの端に建設される予定である。 パリ…45キロバイト (6,297 語) - 2023年10月17日 (火) 01:19
- バベットの晩餐会 (カテゴリ デンマークで製作された映画作品)は地元で謹慎中の若い士官ローレンスが、また妹のフィリパには休暇中の著名なフランス人バリトン歌手アシール・パパンが求愛するが、姉妹は父に仕える道を選び、結婚することなく、清廉な人生を過ごしながら年老いていく。やがて姉妹のもとに、パリ…8キロバイト (936 語) - 2024年2月3日 (土) 13:26
- → フランスにおける内乱 作者:カール・マルクス 1871年 II. 武装したパリは、反革命の陰謀を阻む唯一の重大な障害であった。それゆえ、パリは武装解除されることになった。この点に関して、ボルドー議会は誠実そのものであった。ルーラルの咆哮がまだ十分聞こえていなかったとしたら、ティエールが、革命家
- はデフレ政策として関税の引き上げや支出削減を行いましたが、これらはあまり効果がなく、経済の回復を遅らせました。 この間、政権交代や不祥事が相次ぎ、人々は政治に疑問を抱くようになりました。1934年2月、パリでは右翼団体がコンコルド広場で政府に対するデモ行進を行いました。この出来事は