検索結果
このウィキでページ「ある日アンヌは」は見つかりませんでした。以下の検索結果も参照してください。
- ンスの国民的ヒロインで、カトリック教会における聖人でもある。「オルレアンの乙女」(フランス語: la Pucelle d'Orléans/英: The Maid of Orléans)とも呼ばれる。 ジャンヌは現在のフランス東部ドンレミ(現在はドンレミ=ラ=ピュセルという街)に、農夫の娘として生ま…120キロバイト (16,220 語) - 2024年5月17日 (金) 10:51
- はスペイン人の女官を追い出し、妻マリー・ド・ロアンを始めとするフランス人に替えさせた。リュイヌ公爵夫人は王妃に強い影響を与え、やがて無二の友人となる。リュイヌは国王夫妻の親交を深めるための宮廷催しを開いた。アンヌはフランス風のドレスを着始め、リュイヌは…25キロバイト (3,136 語) - 2024年2月13日 (火) 11:18
- その後、2003年の主要国首脳会議への抗議が起きるまで、街は穏やかであった。[要出典] クロアチア共和国 オシエク(1997年) ローザンヌは世界クラスの教育機関がいくつかあることでも有名である。 スイス連邦工科大学ローザンヌ校(ローザンヌ工科大学とも、École Polytechnique Fédérale…16キロバイト (1,503 語) - 2023年7月17日 (月) 06:33
- 町の最古の部分は丘の上に立てられた。イル川とヴィレーヌ川の合流する地点である。丘の周囲はレンヌ盆地と呼ばれ、柔らかな頁岩の地層を2つの河川が浸食し掘ってできあがった。標高は最高74m、最低20mである。都市分散化と、住宅建設の続行ゆえに、レンヌの旧市街のある丘は両側から挟まれている。 レンヌは…23キロバイト (2,439 語) - 2024年3月2日 (土) 21:58
- アンの長女)との婚約を破棄し、アンヌに求婚した。アンヌはフランスの王子・公子との結婚の申し出を全て拒否する一方、レンヌのジャコバン礼拝堂ではシャルル8世とアンヌの婚約が祝われていた。アンヌは自軍に護衛されて、婚約者との結婚式のためランジェへ出向いた(アンヌ…38キロバイト (4,563 語) - 2023年9月4日 (月) 01:03
- アンリ・マティスらが挙げられる。 パリ エクス ポントワーズ 1839年1月19日、ポール・セザンヌは、南フランスのエクス=アン=プロヴァンスに生まれた。同年2月22日、教区の教会で洗礼を受けた。父のルイ=オーギュスト・セザンヌ(1798年-1886年)は、最初は…84キロバイト (11,005 語) - 2024年4月26日 (金) 13:06
- ある。 1611年、ブイヨン公兼スダン公アンリと、2度目の妻エリザベート・フランドリカ・ドランジュ=ナッソー(オラニエ公ウィレム1世の娘)の次男としてスダン城で生まれた。父方の祖母アリエノールはモンモランシー公アンヌ・ド・モンモランシーの娘であるため、同じくアンヌの曾孫に当たるコンデ公ルイ2世は…34キロバイト (5,158 語) - 2023年6月28日 (水) 17:53
- はオーストリア代表として出品され、受賞を果たした。 パリの瀟洒な高級アパルトマンで、静かに余生を過ごす老音楽家夫婦のジョルジュとアンヌ。昨夜まで連れ立ってコンサートに出かけていたが、翌朝、アンヌが突然、発作を起こした。病が見つかり手術を受けるアンヌ。手術は失敗し、アンヌは…18キロバイト (765 語) - 2024年1月9日 (火) 10:56
- は王女との結婚でなくサリカ法を根拠とするものであった(ヴァロワ朝自体がサリカ法によって成立しており、これは百年戦争の原因にもなっていた)。即位後にルイ12世はジャンヌと離婚し、シャルル8世の未亡人アンヌ・ド・ブルターニュと再婚している。アンヌの祖母マルグリット・ドルレアンはオルレアン…21キロバイト (854 語) - 2023年2月11日 (土) 13:33
- アンヌ・ルイーズ・ジェルメーヌ・ド・スタール(フランス語: Anne Louise Germaine de Staël、1766年4月22日 - 1817年7月14日)は、フランスの批評家、小説家。フランスにおける初期のロマン派作家として政治思想、文芸評論などを行った。多く、スタール夫人(フランス語:…11キロバイト (1,385 語) - 2024年2月20日 (火) 03:40
- アンナ・ヤロスラヴナ(ウクライナ語:Анна Ярославна)またはアンヌ・ド・キエフ(フランス語: Anne de Kiev)1024/32年 - 1075年)は、フランス王アンリ1世の2度目の王妃。キエフ大公ヤロスラフ1世と妻インゲゲルド(スウェーデン王オーロフの娘)の娘。…30キロバイト (2,128 語) - 2024年4月29日 (月) 00:13
- ンヌとの結婚により継承権を得たわけではなかった)。結婚後25年たってもルイ12世とジャンヌの間には子供がなく、ルイはシャルル8世の王妃であったアンヌ・ド・ブルターニュとの再婚を考えた。未亡人となったアンヌは、依然としてブルターニュ公国の君主であるため、西部の要地を押さえる政治的理由からも、再婚は魅力的であった。…6キロバイト (455 語) - 2024年1月16日 (火) 13:55
- カトリーヌ・ド・メディシス (カテゴリ アンリ2世)ンヌ・ダルブレも15歳の息子アンリ・ド・ブルボンとともに彼らに合流した。ジャンヌはカトリーヌに対して「私たちは神と信仰を捨てるよりは死ぬことを決意してここへやって来た」と書き送っている。カトリーヌはジャンヌを「世界で最も恥ずべき女」と呼んだ。だが、資金を使い果たした国王軍は1570年8月8日…103キロバイト (13,744 語) - 2024年5月21日 (火) 16:55
- ブルターニュ (カテゴリ ウィキデータにある座標)アン公子と結婚した。しかしハプスブルク家との政略結婚がフランスとの深刻な対立を招き、シャルル8世はレンヌを包囲し結婚を取りやめさせた上、ただちにアンヌと結婚した。シャルル8世が急逝すると(アンヌとの間にできた子は全て夭折していた)、アンヌはシャルルの後継者でいとこである…126キロバイト (16,552 語) - 2024年3月28日 (木) 11:27
- アンヌは、娘フランソワーズを寄宿学校に預け、パリで一人暮らしをしていた。ある日、娘に会うために寄宿学校に行った帰り、パリ行きの列車を逃してしまう。そんなアンヌにジャン・ルイという男性が車で送ると申し出た。ジャン・ルイも同じ寄宿学校に息子アントワーヌを預けており、また、妻ヴァレリーを自殺で亡くしていた。…9キロバイト (804 語) - 2024年4月26日 (金) 07:03
- アントワーヌは妻に虐げられ、アンヌの方も夫とすぐに別居し、死ぬまで会うことを拒み続けたという。 信仰の生活を送るアンヌは、余生をリュクサンブール宮殿で過ごし、そこで死んだ。死ぬまでの7年間に膨大な回顧録を完成させた。子供がなかったため、彼女の持つモンパンシエやオーヴェルニュなどの所領は…7キロバイト (641 語) - 2024年5月31日 (金) 23:49
- ワールド・プレミアは2021年9月6日に第78回ヴェネツィア国際映画祭のコンペティション部門で実施され、最高賞である金獅子賞を獲得した。 1960年代のフランス。学生寮に暮らす大学生のアンヌは、教師から一目置かれるほど成績優秀で、将来は教師になることを夢見ている。労働者階級の両親のもとに生まれたアンヌ…20キロバイト (1,705 語) - 2023年10月3日 (火) 04:03
- ルイ14世 (フランス王) (カテゴリ アンヌ・ドートリッシュ)ルイ13世とアンヌは1640年にもう一人の男子フィリップをもうけている。だが、ルイ13世は王妃を信用しておらず、自らの崩御後に王妃が国政に影響力を持つことを防ごうとして、摂政諮問会議の設置を遺言した。1643年5月13日にルイ13世が41歳で崩御すると、僅か4歳のルイ14世が即位して母后アンヌ…118キロバイト (16,129 語) - 2024年4月26日 (金) 17:46
- アンヌ・ド・モンモランシー(Anne de Montmorency, 1493年3月15日 - 1567年11月12日)は、ヴァロワ朝時代のフランスの軍人。数々の軍功を挙げた。初代モンモランシー公(在位:1551年 - 1567年)。「アンヌ」はフランスではありふれた女性名であるが、この人物は…10キロバイト (886 語) - 2023年8月18日 (金) 23:12
- はなく、自分たちは何よりもまずブルターニュ人であり、他のフランス人とは別の存在であると考えていた。彼らにとって、ルイ12世とアンヌ・ド・ブルターニュの結婚は決して実現しなかったものであり、この誇り高い公爵夫人を、彼らは声高に「誤婚」、あるいはもっとひどい「裏切り」と呼んで、常に恨んでいた。