鶴彬

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鶴 彬(つる あきら、1909年1月1日(戸籍上、実際には前年12月といわれている) - 1938年9月14日)は、日本プロレタリア文学の影響をつよくうけた代表的な反戦川柳作家である。石川県河北郡高松町(現かほく市)生まれ。本名、喜多 一二(きた かつじ)。

目次

[編集] 来歴・人物

  • 1908年(明治41年)12月(戸籍上は1909年1月1日) 竹細工職人喜多松太郎と、その妻スズ(寿ず)のもとに次男として生まれる。生後すぐ、機屋を営む叔父・喜多弁太郎(喜多郎、徳次郎とも)の養子となる。
  • 1917年(大正6年) 父死去。母の再婚・上京のため、兄、弟妹らも養子となる。小学校在籍中から、『北国新聞』の子ども欄に短歌・俳句を投稿。
  • 1921年(大正10年) 尋常小学校卒業。師範学校進学を養父に拒まれ断念、高等科に進学。近所の川柳家、岡田太一(澄水)に川柳の指導をうけ、句作をはじめる。
  • 1924年(大正13年) ペンネーム「喜多一児」で「北国歌壇」(『北国新聞』)に作品発表。
  • 1925年(大正14年) 専門学校入学者資格検定試験に合格するも進学かなわず。田中五呂八の指導のもと、川柳雑誌『影像』『氷原』に作品発表。
  • 1926年(大正15年)養父経営の工場が閉鎖していたため、いとこを頼って大阪で工場労働者として1年はたらき、高松町に帰郷。このころ森田一二の影響をうけて、プロレタリア川柳へと傾斜。『氷原』『影像』など、川柳誌で続々とボイコットの対象となって、発表の場をせばめられる。
  • 1927年(昭和2年) 上京して、井上剣花坊・井上信子に師事。活動の軸を『川柳人』にシフト。
  • 1928年(昭和3年) 高松町に帰郷。「高松川柳会」を設立し、プロレタリア川柳を唱導。全日本無産者芸術連盟(ナップ)高松支部結成。高松川柳会への弾圧で喜多一二ら4名検束される。筆名を「山下 秀」、さらに「鶴 彬」と。
  • 1930年(昭和5年) 徴兵検査で甲種合格、第9師団歩兵第7連隊金沢)に入隊するが、陸軍記念日の「質問」などにより重営倉に。
  • 1931年(昭和6年) 『無産青年』所持等により、いわゆる七連隊赤化事件の主犯とされ、治安維持法違反で大阪衛戍監獄に収監、刑期1年8か月。
  • 1935年(昭和10年)10月 上京。
  • 1937年(昭和12年) 東京深川の木材通信社に就職。12月作品が反軍的として治安維持法違反で再逮捕、中野区野方署に留置される。
  • 1938年(昭和13年)8月 野方署で赤痢に罹患。豊多摩病院に入院、死去。

[編集] 参考文献

  • 木村哲也編『現代仮名遣い版 鶴彬全川柳 手と足をもいだ丸太にしてかえし』(邑書林 2007年、ISBN:978-4-89709-585-1)
  • 深井一郎『反戦 川柳作家 鶴彬』(日本機関紙出版センター 1998年、ISBN:978-4-88900-810-4)
  • 一叩人編『鶴彬全集』(初版:たいまつ社 1977年、増補改訂復:刻版復刻責任者=澤地久枝、1998年)
  • 一叩人編『反戦川柳人・鶴彬―作品と時代』(たいまつ社 1978年)
  • 邦画「鶴彬-こころの軌跡-」(2009年 神山征二郎監督)

[編集] 関連項目

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