間宮喜十郎

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間宮 喜十郎
生誕 嘉永3年3月25日1850年5月6日
駿河国沼津
死没 明治28年(1895年3月2日(45歳)
職業 教育者
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間宮 喜十郎(まみや きじゅうろう、嘉永3年3月25日1850年5月6日) - 明治28年(1895年3月2日)は、駿河国沼津出身の教育者。沼津尋常小学校(現・沼津市立第一小学校)校長。

経歴[編集]

幼少期・青年時代[編集]

間宮家は駿河国沼津宿の下本町で本陣を営んでいた家である[1]嘉永3年3月25日1850年5月6日)、間宮喜十郎は間宮家の長男として生まれた[1]。生まれ諱は格、通称は喜十郎、後の呼び名は烟雨。父親は間宮喜右衛門[1]。幼少時より聡明だった間宮は、西間門村の實相院の院主である西尾麟角から書法を学び、水野藩士の五十川中に経書を学んだ[1]

元治元年(1864年)5月には14歳(数え年15)で江戸に出て、林大学頭の門で漢学を学んだ[2][1]明治維新後の1869年(明治2年)に沼津に帰郷したが、これには戊辰戦争の影響で自由に学問ができなくなったこと、沼津兵学校やその附属施設である沼津兵学校付属小学校(現・沼津市立第一小学校)が設立されたことなどの理由がある[1]。20歳だった1869年(明治2年)には沼津兵学校付属小学校に入学し、10歳前後の少年と並んで英学洋書などを学んだ[2][1]。その後は再び東京に出て、1873年(明治6年)1月に慶應義塾に入って洋学を学んだ[2][1]

明強舎校長時代[編集]

1872年(明治5年)8月には学制が発布され、1873年(明治6年)7月には沼津の下本町に公立小学明強舎が設立された[1]。1874年(明治7年)には再度沼津に帰郷し、明強舎の監督と訓導に任ぜられ、第二大学区第十四番中学区の取締役にも任ぜられた[1]。1876年(明治9年)9月には明強舎の校長となり、さらに『開化消息往来』や『十八史略字解』などを編纂した[1]

1877年(明治10年)1月に明強舎の建物が焼失すると、明強舎と集成舎が統合されて沼津学校(現・沼津市立第一小学校)が発足し、間宮は沼津学校の副校長に任ぜられた[1]。1878年(明治11年)10月には副校長を持して第一大区七小区の副戸長となり、1881年(明治14年)11月には駿東郡第二学区の学務委員に任ぜられた[1]。1881年(明治14年)3月には同志とともに『沼津新聞』を創刊している[1]

沼津小学校校長時代[編集]

1887年(明治20年)2月には集成・明強・三橋の3学校が統合されて沼津尋常小学校(現・沼津市立第一小学校)が発足し、間宮が校長に就任した[1]。自身が購入した図書や寄贈された図書を基にして、1888年(明治21年)7月には沼津尋常小学校の一室に沼津文庫を設立[1]。7月6日には静岡県知事の関口隆吉に対して図書館設置の申請を行い、7月21日に関口から認許を得た[1]。8月には沼津文庫の設立趣意書を発表し、その後一般の閲覧を可能とした[1]。当初の蔵書数は数百部だったが、1943年(昭和18年)時点では約5000冊に増加している[1]。沼津文庫は静岡県で最も早く設立された公立図書館とされ、その蔵書は後に沼津市立図書館に移管されている[2]

1885年(明治18年)に胃腸病を患った際には、沼津の千本浜海水浴を行って健康を回復した[1]。当時はまだ海水浴自体が珍しかったが、その後は保健法としての海水浴が脚光を浴び、千本浜海水浴場は大いににぎわった[1]

晩年[編集]

1892年(明治25年)7月には健康上の問題で校長職を退き、自宅で『沼津小誌』の編纂に携わっていたが、1895年(明治28年)3月2日に45歳(享年46)で死去[1]。墓地は大聖寺[2]。千本浜には間宮の功績を称える碑がある[2]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 大野虎雄『沼津兵学校附属小学校』大野虎雄、1943年
  2. ^ a b c d e f 沼津市教育委員会社会教育課『郷土の人物 郷土歴史(人物史)教室から 2』沼津市、1983年

参考文献[編集]

  • 大野虎雄『沼津兵学校附属小学校』大野虎雄、1943年
  • 沼津市教育委員会社会教育課『郷土の人物 郷土歴史(人物史)教室から 2』沼津市、1983年