野田町 (樺太)
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のだちょう 野田町 | |
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廃止日 | 1949年6月1日 |
廃止理由 |
国家行政組織法施行 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 樺太地方 |
都道府県 | 樺太庁 真岡支庁 |
郡 | 真岡郡 |
面積 | 373.448[1] km2. |
総人口 |
7,366人 (1941年12月1日) |
隣接自治体 |
真岡郡小能登呂村 泊居郡泊居町 豊栄郡落合町 |
野田町役場 | |
所在地 | 樺太庁真岡郡野田町 |
座標 | 北緯47度27分02秒 東経141度59分03秒 / 北緯47.45056度 東経141.98417度座標: 北緯47度27分02秒 東経141度59分03秒 / 北緯47.45056度 東経141.98417度 |
特記事項 | 1943年4月1日以降は北海地方に所属。 |
ウィキプロジェクト |
野田町(のだちょう)は、日本の領有下において樺太に存在した町。
野田という地名は、アイヌ語の「ノタ・サム(ノッ・サム)」(岬の傍ら)による[2]。
現在はロシア連邦がサハリン州チェーホフ (Чехов) などとして、実効支配している。
概要
[編集]西は間宮海峡に面していた。主な産業は漁業と炭鉱業であった。公共交通機関としては樺太西線があった。
1921年、鉄道が開通するとともに王子製紙野田工場が操業を開始し、製紙業の街となった[3]。
歴史
[編集]- 1915年(大正4年)6月26日 - 「樺太ノ郡町村編制ニ関スル件」(大正4年勅令第101号)の施行により、野田寒村、久良志村が行政区画として発足。野田寒郡(後に野田郡に改称)に所属し、真岡支庁が管轄。
- 1922年(大正11年)10月 - 所属郡が真岡郡に変更。
- 1923年(大正12年)4月1日 - 野田寒村・久良志村が合併して野田町となる。
- 1929年(昭和4年)7月1日 - 樺太町村制の施行により一級町村となる。
- 1942年(昭和17年)11月 - 管轄支庁が真岡支庁に変更。
- 1943年(昭和18年)4月1日 - 「樺太ニ施行スル法律ノ特例ニ関スル件」(大正9年勅令第124号)が廃止され、内地編入。
- 1945年(昭和20年)8月22日 - ソビエト連邦により占拠される。
- 1949年(昭和24年)6月1日 - 国家行政組織法の施行のため法的に樺太庁が廃止。同日野田町廃止。
町内の地名
[編集]- 旧野田寒村地域
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- 旧久良志村地域
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([4])
地域
[編集]教育
[編集]以下の学校一覧は1945年(昭和20年)4月1日現在のもの[5]。
- 樺太公立小岬国民学校
- 樺太公立久良志国民学校
- 樺太公立野田国民学校
- 樺太公立北沢国民学校
- 樺太公立南豊国民学校
観光
[編集]- 梅香温泉[6]
脚注
[編集]- ^ 樺太年鑑 昭和8年(樺太敷香時報社・著、出版者 樺太敷香時報社 1933年)に「面積三萬七千六百五十六町歩」とあり。
- ^ 南樺太:概要・地名解・史実 p.335
- ^ 樺太林業史編集会 『樺太林業史』 p109-110 1960年 農林出版株式会社
- ^ 南樺太:概要・地名解・史実(西村いわお・著、高速印刷センター内出版部 1994年)より。
- ^ 北海道立教育研究所『北海道教育史 地方編2』(1957年)p. 1684
- ^ 明治・大正・昭和の鉄道地図を読む (中村建治・著、イカロス出版、2013年2月15日発行)41頁(引用元は『鐡道交通案内圖』(松榮堂、1944年4月25日発行))