薛真度

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薛 真度(せつ しんど、生没年不詳)は、中国南北朝時代官僚軍人本貫河東郡汾陰県

経歴[編集]

薛弘敞の子として生まれた。薛安都の従祖弟にあたる。太平真君7年(446年)、薛安都とともに北魏から南朝宋に亡命した。景和元年(465年)、薛安都が徐州刺史となると、真度はその下で長史となり、爪牙をつとめた。皇興元年(467年)、薛安都に従って北魏に降り、上客となった。太和初年、河北侯の爵位を受け、安遠将軍の号を加えられた。鎮遠将軍・平州刺史となり、仮の陽平公となった。太和16年(492年)、侯から伯に降封され、冠軍将軍の号を受けた。孝文帝の南征に従軍し、仮の平南将軍となった。後に護南蛮校尉・平南将軍・荊州刺史に任じられた。

太和18年(494年)、雍州刺史の曹虎が偽って北魏への降伏を申し出てくると、真度は4将を率いて襄陽に進出したが、功績のないまま撤退した。赭陽に遠征して、斉の南陽郡太守房伯玉に敗れた。御史の弾劾を受けて官爵を剥奪するよう奏上されたが、孝文帝は爵位と荊州刺史の任を返した。まもなく仮節を受け、仮の冠軍将軍となり、東荊州刺史に任じられた。後に持節を加えられ、正式に冠軍将軍の号を受け、臨晋県開国公に改封された。征虜将軍・豫州刺史に転じた。

景明元年(500年)、豫州で飢饉が起こると、真度は宣武帝に上表して救恤を要請した。裴叔業が寿春で北魏への帰順を求めてくると、真度は兵を率いて寿春に赴いた。まもなく征虜将軍のまま華州刺史に転じた。しばらくして荊州刺史に転じた。入朝して大司農卿となった。正始元年(504年)、平南将軍・揚州刺史に任じられたが、老齢のため子の薛懐吉を本官のまま隨行することを許された。正始2年(505年)、の豫州刺史の王超宗が兵を率いて小峴を包囲すると、真度は兼統軍の李叔仁らに兵を与えて王超宗を攻撃させた。王超宗が迎撃してくると、李叔仁はこれを撃破し、3000人を捕殺した。真度は洛陽に帰還すると、金紫光禄大夫の位を受け、散騎常侍の位を加えられ、敷西県開国公に改封された。永平年間に死去した。享年は74。左光禄大夫の位を追贈された。は荘といった。

子女[編集]

男子が12人あった。

  • 薛懐徹(嫡子、敷西県公、太常丞、征虜将軍・中散大夫、左将軍・太中大夫、車騎将軍・左光禄大夫)
  • 薛懐吉(庶長子)
  • 薛懐直(京兆国内史・衛大将軍・左光禄大夫)
  • 薛懐朴(恒農郡太守・襄陵男)
  • 薛懐景(征南将軍・河東郡太守・安定男)
  • 薛懐儁(撫軍将軍・光禄大夫・汾陰男。征南将軍・益州刺史。東魏天平初年に梁の蘭欽に捕らえられて建康に送られ、蕭衍と面会した後にその許しを得て帰国した。興和年間に死去)

伝記資料[編集]