萬勝寺 (恵那市)

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萬勝寺(飯高観音)
所在地 岐阜県恵那市山岡町馬場山田飯高
位置 北緯35度20分56.8秒 東経137度25分11.2秒 / 北緯35.349111度 東経137.419778度 / 35.349111; 137.419778座標: 北緯35度20分56.8秒 東経137度25分11.2秒 / 北緯35.349111度 東経137.419778度 / 35.349111; 137.419778
山号 妙法山(飯高山)
宗派 臨済宗妙心寺派
本尊 十一面観世音菩薩
創建年 平安時代初期
開山 円仁(開創)
中興年 元和2年(1616年)
中興 椽室宗採
別称 飯高観音
札所等 恵那三十三観音霊場十三番、  東海白寿三十三観音霊場二十五番
法人番号 5200005009490
萬勝寺の位置(岐阜県内)
萬勝寺
萬勝寺
萬勝寺 (岐阜県)
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萬勝寺(まんしょうじ)は、岐阜県恵那市山岡町にある臨済宗妙心寺派寺院山号は妙法山(通称 飯高山)。

厄除けの飯高観音として知られる。

歴史[編集]

平安時代の初期、慈覚大師により創建され、本尊の十一面観音は慈覚大師の作と伝わる。

元は天台宗で、飯高山 満昌寺と称し、七堂伽藍の他、山内寺院(不動院、孤月坊、大聖坊、般若坊、尊勝寺、内光寺、苦別堂、白山大権現、その他として田沢村に山中薬師という寺に4箇寺があり)合計十二ケ寺があったといわれている。

中世には385石の寺領を持ち栄華を誇った。

建久6年(1195年)飯高寺で経典を写経した古文孝経が、愛知県豊田市猿投神社に存在しており、

「建久六年乙卯四月廿六、美州遠山之庄飯高寺書写了」という奥書がある。この飯高寺とは、現在の萬勝寺を指すとされる。[1]

戦国時代末期に明知遠山氏遠山利景は出家し満昌寺の僧侶となっていたが兄二人が武田勢との戦で戦死したため還俗し明知遠山氏の武将となり徳川側について武田勢と戦った。

天正2年(1574年)に満昌寺は武田勝頼による東濃侵攻時の兵火により焼失した。そのため過去の詳細な記録は不明となっている。

江戸時代になり江戸幕府旗本(交代寄合)となった遠山利景は寺の焼け跡の荒廃を嘆いて明知遠山氏の菩提寺である龍護寺を開山した椽室宗採に再興を依頼した。

椽室宗採は、この地の有力者であった、寺下の後藤新右衛門,関屋の春日井総右衛門,そして桜井某の助力を得て、

遠山利景が亡くなった翌年の元和2年(1616年)に、厄除けの千手観音は、そのままとし、新たに十一面観音を本尊として、臨済宗に改宗し、寺名を妙法山 萬勝寺に改めて再興を果たした。

しかし当時は檀家が二十軒程度にすぎず、寺格も低く平僧地[2]であった。龍護寺の末寺であるため、住職の多くは龍護寺から入ったが、杉平村の安住寺の隠居和尚が入ったこともあった。

文政年間(1818年~1831年)、烏道就和尚の代に法地[3]に格上げされ、

文政12年(1829年)、宗活首座の代に名古屋の鋳工の水野太郎右エ門によって梵鐘が鋳造された。

萬勝寺のある飯高は、一旦は旗本明知遠山氏の領地と決まったが、岩村城に程近いため岩村藩と領有を巡って争いとなった。そのため一旦江戸幕府が預かった後に尾張藩に渡されて明治に至った。

寺地は恵那市指定の名勝で、近くに悲しい伝説を持つ機子ヶ池[4]や、武田勢が釣鐘を投げ入れたという底無しの池などがあり、西へ少し離れた仁王門跡には、元の位置ではないが礎石も残っており、桜の馬場の名残を留める桜樹や枝垂柿も恵那市の天然記念物に指定されている。

中世以前と思われる経塚も史跡に指定され、近世の一石一字の経塚も観音堂脇にある。

1941年昭和16年)、本堂はじめとする多くが失火により焼失。しかし本尊の十一面観音はじめとする各仏像に被害は無く、太平洋戦争後に檀信徒の尽力により本堂、観音堂、庫裏が建設され、

平成元年(1989年)に山門と鐘楼が、平成4年(1992年)には本堂が、平成13年(2001年)には現在の新観音堂が落慶し、現在に至っている。

恵那地方では厄除の飯高観音として知られており、初詣や縁日(毎月17日)には多くの参拝者が訪れている。

境内[編集]

  • 新観音堂
  • 旧観音堂(弘法堂)
  • 茶室 園月[5]
  • 機子ヶ池

文化財[編集]

市指定[編集]

  • 飯高観音

周辺[編集]

関連寺院[編集]

参考文献[編集]

  • 『山岡町史 通史編』 第四編 第三章 室町幕府 第五節 中世の生活 飯高山 満昌寺 p256 山岡町誌編纂委員会 1989年
  • 『山岡町史 通史編』 第四編 第九章 宗教 第三節 禅宗寺院 万勝寺 p628~p630 山岡町誌編纂委員会 1989年   
  • 『恵那郡史』 第六篇 戦国時代 第二十六章 禅宗の興隆 【曹洞宗】  p200~p202 恵那郡教育会 1926年
  • 『恵那郡史』 第八篇 現代 第四十一章 人文の発展(一) 【各宗寺院】 p612~p619 恵那郡教育会 1926年
  • 『恵那郡史』 終篇 第二章 傳説 機子ヶ池 p735~p736 恵那郡教育会 1926年

外部リンク[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 熊谷博幸著「明知御陣屋」乾
  2. ^ 江戸時代に用いられていた臨済宗や曹洞宗の禅宗寺院の格式(寺格)の一で、最下位にある堂舎や庵などの小院を指し、嗣法をしていない男僧(平僧)や、嗣法資格を持たなかった尼僧などが住し、そのような者には、庵主などがそれに当たる。
  3. ^ 一般的な寺院
  4. ^ 昔、機織がとても上手く美しい娘が、鷹狩で当地を訪れた殿様が見初められ、側室に迎えようとしたが。娘は固く固辞した為、殿様は面目を潰され、一族に重罪を科すと命じた事で娘は思い余って「機子ヶ池」に身を投げた言われている。
  5. ^ 岩村藩主松平乗紀宝永年間(1704年~1710年)に岩村城内に建てたと伝わる茶室