荀愷

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荀 愷(じゅん がい、生没年不詳)は、中国三国時代から西晋にかけての政治家、武将。茂伯。小字は虎子豫州潁川郡潁陰県(現在の河南省許昌市)の人。曾祖父は荀彧、祖父は荀惲(妻は曹丕妹)、父は荀霬(妻は司馬昭妹)。兄は荀憺、弟は荀悝。

生涯[編集]

荀愷は幼くして名が知られ、外祖父の司馬懿からも評価され「虎子」という字(あざな)を与えられた。また司馬懿は事あるごとに「(この子が)大きくなったら、共に天下に当たりたい」と語っていた[1]景元4年(263年)に征蜀が開始されると、護軍・荀愷も鍾会の麾下として参陣した。同9月、鍾会が漢中に至ると、王含の守る楽城には李輔を、蒋斌の守る漢城(沔陽県)には荀愷[2]を、それぞれ一万人を付けて包囲させた[3]。劉禅降伏後、蒋斌も抵抗を止め、涪の鍾会のものに出頭した[4]

前後は不明だが、山濤の推薦で驍騎將軍(中軍の一つ)となり、聡く明敏で、宿営を統御して前任者の王済に引けを取らなかった[5]

父の亡き後、跡を継いでいたが、咸煕年間(264年265年)に五等爵の制度が始まると父の功績から改めて南頓子(汝南郡)に封じられた。武帝・司馬炎の時代(266年290年)は、侍中を務めたという[6]

荀愷が司隷校尉の頃、平素より王愷と牽秀は互いに軽蔑しあっていた。ある時、王愷にそれとなく唆されたため、荀愷は「牽秀が夜中、高平国の守備平・田興の妻を車に乗せた」と上奏した。牽秀は誣告であると主張し群臣も擁護したが、彼の名声は傷つけられ最終的に免官となった[7]

永熙元年(290年)、恵帝・司馬衷が即位すると楊駿が政治を取り仕切った。そのころ司隷校尉の荀愷は従兄[8]が亡くなり、自ら上表して喪に駆け付けたが、詔で許可が出る前に(荀愷は)楊駿を訪問した。傅咸から「(前略) 詔が未だ下らぬ間に、阿諛追従し楊駿を訪ねました。よろしく官を削り、教化を広めるべきです」と弾劾されたが、楊駿が政権を取っていたため、恵帝は不問とした[9]。司隷校尉の石鑒が鬱林太守・介登の罷免を上奏した。尚書の荀愷は「遠郡は人情から言って好まれないので、介登の秩禄を削り太守のままとすべき」と主張した。一方で尚書郎の李重は「例外を作るべきではない」と強く説いたため、詔が下り介登は呼び戻された[10]

元康元年(291年)、楊駿が誅殺された事件の折、裴楷の息子の裴瓚は楊駿の婿なこともあって、乱兵に殺害された。尚書左僕射の荀愷は裴楷と不仲であり、裴楷も楊駿の親類であると上奏して廷尉に引き渡した。しかし、傅祗が裴楷の無罪を証明したため、詔が下り赦された[9]。また荀愷は武帝・司馬炎の従兄弟であり高貴を自負し、武茂より年少であったが、彼との交友を求めたことがあった。しかし、武茂が拒否したため、これを恨みに思っていた。楊駿が誅殺されると、楊駿は武茂の外甥であるという理由で陥れて処刑させた[11]

同年、皇后賈南風は後軍将軍・荀悝に命じて楊太后を永寧宮へ移送させ、実母の龐氏と同居することを許した。しかし、楊駿誅殺の折、楊太后(楊芷)は矢文で外に救援を求めたことが取り沙汰され、「太后の位を廃して庶人とすべし」と上奏された。張華は「太后から皇后への降格」を求めると、尚書左僕射の荀愷と太子少師の司馬晃は「廃位して金墉城に移すべし」と主張し、詔により許可された[12]

これ以後は記録は途絶えるが、官位は征西大將軍にまで昇ったという[13]

『三国演義』の活躍[編集]

魏の兵士として、『演義』第116回に登場する。南鄭関を守る蜀将・盧遜との攻防で、鍾会の馬の足が橋に落ち込み絶体絶命の危機に陥ると、軍中にいた荀愷は一矢でもって迫りくる盧遜を落馬させ、南鄭関の奪取に貢献した。荀愷はこうした功績から護軍に任命され、鞍や甲冑も贈られ、その後は史実と同様に漢城を包囲した。

脚注[編集]

  1. ^ 『荀氏家傳』
  2. ^ 晋書』では部將の「易愷」と記す
  3. ^ 『三國志』鍾会伝
  4. ^ 蒋斌は鍾会に随行して成都にむかった。また成都では鍾会が護軍・郡守・牙門騎督以上や蜀旧臣らを集めたが、荀愷の位置はわからない。
  5. ^ 『通典』注
  6. ^ 干宝『晋紀』には侍中の荀顗と和嶠が皇太子・司馬衷の成長具合を報告する逸話があり、『三國志』注で裴松之は「この時期、荀顗はすでに死去し、荀勗は侍中となったことはないため荀愷の誤りではないか」とする。しかし、『晋書』では荀勗の逸話となっており、また侍中の官歴もあるため荀顗→荀勗は正しいが、荀顗→荀愷ではないと『三國志集解』は注釈で記す。
  7. ^ 『晋書』牽秀伝
  8. ^ 従兄弟の荀頵は早世したという記録がある。
  9. ^ a b 『晋書』傅咸伝
  10. ^ 『晋書』李重伝
  11. ^ 『晋書』武陔伝
  12. ^ 『資治通鑑』巻82
  13. ^ 『三國志』注『荀氏家傳』