筒井順覚

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筒井順覚
時代 南北朝時代 - 室町時代
生誕 不明
死没 応永29年(1422年
別名 舜学房
幕府 室町幕府
主君 足利義持
氏族 筒井氏
順弘光宣、五郎、某(覚順父)、尊覚実憲順実昭覚順永[1]
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筒井 順覚(つつい じゅんかく)は、南北朝時代から室町時代にかけての武将大和国国人で、興福寺衆徒。史料上確認できる最初の筒井家当主[2]

生涯[編集]

筒井氏は、大和国の西北部(添下郡平群郡)に結成された武士の一揆的集団・戌亥脇党の一員[3]鎌倉時代の結成当初は目立つ存在ではなかったが、南北朝時代の順覚の頃には有力な存在として台頭してきた[3]

元中2年/至徳2年(1385年)、初めて順覚の名が現れ[4][5]、翌元中3年/至徳3年(1386年)には、興福寺の衆中(官符衆徒)沙汰衆の1人として順覚の名前が見える[6]

元中9年/明徳3年(1392年)に南北朝の合体が行われた後も、幕府方と旧南朝(後南朝)方の争いは続いており[7]応永11年(1404年)7月、後南朝方の箸尾為妙十市遠重により筒井氏(順覚か)は攻められ、敗れた筒井氏は本拠である筒井郷を焼かれた[7]。これを受け幕府は使者を遣わして合戦を停止させ、応永13年(1406年)2月、足利義満は軍勢を派遣して箸尾氏・十市氏を破り、両氏から所領を没収した[7]

応永21年(1414年)、多武峰寺宇陀郡沢氏の間で合戦が発生[8]。幕府はこれを制止したが収まらず、越智氏が沢氏に加勢し、また十市氏や布施氏高田氏ら諸氏も出陣するなど、戦いの規模も大きなものとなっていた[8]。興福寺の学侶や衆徒たちは協議のうえ、幕府に私合戦の停止を訴え[9]、これを機に幕府は衆徒・国民を上洛させて、私合戦の停止を誓わせた[10]。この時の誓約には筒井氏も加わっている[11]

応永29年(1422年)5月、筒井舜学房が死去[12]。この舜学房が順覚であると推測される[13][注釈 1]

順覚の跡は孫の覚順が継ぎ、永享6年(1434年)に覚順が戦死すると、その伯父の順弘が家督を継いだ[14]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 舜学房を順覚と別人とし、永享6年(1434年)8月に筒井五郎とともに討たれた「大将筒井」(『看聞日記』)を順覚とする説もある[12]

出典[編集]

  1. ^ 安田 2004, p. 122; 金松 2019, p. 13.
  2. ^ 安田 2004, p. 123; 金松 2019, p. 12.
  3. ^ a b 安田 2004, pp. 121, 123.
  4. ^ 至徳2年11月日乾脇一族等連署約諾状案(「東大寺薬師院文庫史料 五」)。
  5. ^ 安田 2004, p. 149, 補注.
  6. ^ 朝倉 1993, pp. 415–416; 安田 2004, p. 123.
  7. ^ a b c 朝倉 1993, pp. 91, 416.
  8. ^ a b 朝倉 1993, p. 91.
  9. ^ 朝倉 1993, pp. 91–92.
  10. ^ 朝倉 1993, pp. 91–92; 安田 2004, p. 123.
  11. ^ 朝倉 1993, p. 92; 安田 2004, p. 123.
  12. ^ a b 朝倉 1993, p. 417.
  13. ^ 安田 2004, p. 123; 金松 2019, p. 13.
  14. ^ 安田 2004, p. 124; 金松 2019, p. 13.

参考文献[編集]

  • 朝倉弘『奈良県史 第十一巻 大和武士』名著出版、1993年。ISBN 4-626-01461-5 
  • 金松誠『筒井順慶』戎光祥出版〈シリーズ・実像に迫る019〉、2019年。ISBN 978-4-86403-314-5 
  • 安田次郎 著「筒井氏の「牢籠」と在地支配」、勝俣鎭夫 編『寺院・検断・徳政―戦国時代の寺院史料を読む』山川出版社、2004年。ISBN 4-634-52190-3