筒井定慶

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筒井 定慶(つつい じょうけい、生年不詳 - 慶長20年5月10日1615年6月6日))は大和国出身の戦国時代江戸時代初期の大名

筒井家から福須美家に入った福須美順弘の子正次として生まれた。母は、伯父にあたる筒井順昭の次女。

その後筒井氏当主の筒井順慶の養子となる。 順慶が死去すると豊臣秀長に仕えたが、 秀長が病で死去し、その子の秀保も急死し、大和羽柴家が断絶した後は徳川家康についた。順慶の死後に筒井家を継いでいた筒井定次1608年に改易となると、家康の協力もあり筒井家を相続、大和郡山城1万石を領し、名を定慶に改めた。

元和元年(1615年)4月には大坂夏の陣が勃発。豊臣方からこちらに付くようにとの誘いがあったが、これを断った。やがて豊臣方の大野治房軍が来襲、大和郡山城を包囲し城下町に放火した。大野勢が2,000余だったのに対し定慶の手元には与力36騎があるのみで、定慶は敵わずと見て城を放棄、福住に落ち延びるがやがて切腹した。逃亡を恥じての切腹とも言われている。

辞世の句「世の人のくちはに懸る露の身の 消えては何の咎もあらじな

定慶の死亡により、大名としての筒井氏は断絶した。だが定慶の血縁の子孫が1,000石の旗本となった。幕末日露和親条約の交渉を行った筒井政憲はその末裔である。