清原真貞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
清原真貞
時代 平安時代初期 - 前期
生誕 不明
死没 不明
改名 真貞王→清原真貞
官位 従五位下筑後守
主君 文徳天皇清和天皇
氏族 清原真人
兄弟 真貞、清貞
テンプレートを表示

清原 真貞(きよはら の まさだ)は、平安時代初期から前期にかけての皇族貴族。当初真貞王を名乗る。臣籍降下後の氏姓清原真人舎人親王の後裔。官位従五位下筑後守

経歴[編集]

当初真貞王を名乗り、父祖は明らかでないが、舎人親王の四世孫にあたるか。仁寿3年(853年)従五位下・長門守に叙任される。文徳朝末の天安2年(858年)正月に弟の清貞王と共に清原真人姓を与えられて臣籍降下し、同年7月に内膳正に任ぜられる。

清和朝に入り、天安3年(859年)正月に上総介に任ぜられるも、2月には左京亮に遷るが、翌貞観2年(860年)正月に越後守として地方官に転じている。その後、筑後守と清和朝前半は地方官を歴任する。筑後守の任期を終えて、貞観11年(869年採山城国岡田山銅使に任ぜられ、山城国相楽郡岡田郷(現在の京都府木津川市加茂町付近)の銅山の責任者となるが、早くも貞観12年(870年)には筑後守に再任されている。

官歴[編集]

六国史』による。

参考文献[編集]