楊毓珣

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楊毓珣
プロフィール
出生: 1895年光緒21年)
死去: 1947年民国36年)
中華民国の旗 中華民国
出身地: 安徽省泗州
職業: 軍人
各種表記
繁体字 楊毓珣
簡体字 杨毓珣
拼音 Yáng Yùxún
ラテン字 Yang Yü-hsün
和名表記: よう いくしゅん
発音転記: ヤン ユーシュン
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楊 毓珣(よう いくしゅん、1895年 - 1947年)は中華民国の軍人。南京国民政府(汪兆銘政権)の要人。琪山

事跡[編集]

北京陸軍大学第5期を卒業。江西省警備隊統領、北京大総統府侍従武官を歴任した。1926年民国15年)7月、北京政府参謀本部次長をつとめる。翌年6月、軍事部陸軍署次長となった。1928年(民国17年)4月、軍事部軍政署署長に昇進している。その後、国民政府でも中将銜を授与された。

1940年(民国29年)3月、汪兆銘(汪精衛)が南京国民政府を創設すると、楊毓珣は中央政治会議議員に任命された。1945年(民国34年)2月、山東省省長に任命される。4月、駐済南綏靖主任公署主任を兼任した。

日本敗北後、楊毓珣は漢奸として国民政府に逮捕される。1947年(民国36年)、獄死した。享年53。

参考文献[編集]

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  南京国民政府(汪兆銘政権
先代
唐仰杜
山東省長
1945年2月 - 8月
次代
(廃止)