楊修
楊 修(よう しゅう、? - 219年)は、中国後漢末期の政治家。字は徳祖。「楊脩」とも呼ばれる。司隷弘農郡華陰県の人。楊震の玄孫。楊賜の孫。楊彪の子。楊囂の父、楊準の祖父。母は袁術の妹。『三国志』魏志「曹植伝」、及びその注に引く『典略』などに記録がある。
名門出の子弟として生まれ、曹操に仕えその才能を愛されたが、曹氏の後継者争いで曹植に味方し、その才能を警戒され殺害された。
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[編集] 出自
弘農の楊氏は後漢の「四世太尉」の名門である。先祖は前漢初期の赤泉侯楊喜や昭帝時丞相の安平侯楊敞(司馬遷の娘婿)であると伝わっているが(『後漢書』「楊震伝」)、信憑性に疑義も呈されている。
[編集] 生涯
謙虚で広い才能の持ち主であり、建安年間に孝廉に推挙された。郎中に取り立てられたが、曹操の要請で倉曹属主簿を務めることとなった[1]。当時の丞相府は内政・軍事の課題が累積していたが、楊修はその激務をよくこなし曹操に気に入られた[2]。太子であった曹丕以下、楊修と親交を結ぼうとする者は多かったが、臨葘侯の曹植とは特に深く親交を結び、手紙のやり取りをたびたびした[3]。
劉璋が張松を曹公(曹操)のもとへやったところ、曹公はあまり礼遇しなかった。曹公の主簿の楊修は張松の人物を高く評価し、曹公に張松を召し抱えるよう言上したが、曹公は承知しなかった。楊修が曹公の編纂した兵書を張松に見せたところ、張松は宴会の間に通覧して、たちどころに暗誦した。楊修はそのためますます彼を特別視した。[4]
建安24年(219年)、曹操は漢中に遠征したが、劉備との間で持久戦が続いた。このときに曹操が言った「鶏肋」という言葉に対し、「鶏肋(鶏のあばら骨)は、捨てるには惜しいが、食べても腹の足しになるほど肉がついてない」、即ち「惜しいが今が撤退の潮時」という意味であるとただ1人読み解き、撤退の準備を命じたという(『三国志』魏志「武帝紀」が引く『九州春秋』)。果たして同年夏5月に曹操は撤退した。
楊修はその後まもなく曹操によって処刑された。建安24年秋のことであった。殺害の理由は、楊修が曹植に対し、「答教」という教科書を用いて曹操の意向を予め教えていたため、そして妄りに諸侯(曹植)と連絡を取り合ったためという。
楊修は丁儀兄弟と共に羽翼となって、曹植を助けたともされている[5]。曹操は曹植への寵愛が訪れると、後顧の憂いを経つため楊修に罪を被せて、処刑する機会を窺っていたという。また、楊修も曹植との関係で自らの身が危険になることを察していたが、曹植との交際を積極的に断つことはしなかったという。
楊修の処刑については、母親が袁術と縁続きであったことを曹操が考慮したともされており、明確な理由は分かっていない。
曹操は既に引退していた父の楊彪に、自ら楊修の死を知らせて反応を見ようとしたが、楊彪は目に見えて憔悴した様子であったが、それでも堂々としていたため返って尻込みしたという(『後漢書』「楊震伝附楊彪伝」)。
楊修の死後、数100余日して曹操は死去した。曹操の死後、後継となり、禅譲により魏を興した曹丕(文帝)はかつて楊修から献上された剣を持っており、楊修の自分に対する冷淡な態度を思い起こすことがあったという。
[編集] 子孫
子の楊囂、孫の楊準は西晋に仕えて高官に上った。楊修の直系の子孫は東晋の末期まで続いたが、安帝の時代である義熙4年(408年)に楊思平(楊準の曾孫、楊佺期の弟)が処刑された[6]以降は、不明となる。
[編集] 評価
平原の禰衡に、「許昌には孔融と楊修しか人材がいない」と評されたことがある(『三国志』魏志「荀彧伝」が引く『平原禰衡伝』。
[編集] 演義の楊修
小説『三国志演義』では、禰衡の登場場面で名前のみが挙がり、しばらくして益州より訪れた張松の接待役として登場する。張松と接触する内にその才を認め、曹操に面会を申し入れるが、逆に曹操の逆鱗に触れた張松は百叩きの罰を与えられ、楊修の前から去ってしまっている。その死は劉備軍との漢中攻防戦において、「鶏肋」の謎を解き、退却の準備を始めたため、曹操の怒りに触れて処刑されたためとなっている。曹操は「鶏肋」という言葉が、軍を退くということではないことを示すために劉備軍へ攻めかかったが、劣勢の上、長征で疲労気味の兵では劉備軍に敵う筈もなく結局は惨敗、曹操自身も弓矢で前歯を折られ命からがら逃げ返ることになる。そのため曹操は「楊修の言うとおりに軍を退いていれば、損害を最小限に食い止められていた」と思い、撤退を決断している。
[編集] 参考資料
- 『三国志』
- 『後漢書』
- 『晋書』
- 『三国志演義』