書記 (歴史書)

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書記
各種表記
ハングル 서기
漢字 書記
発音 ソギ
日本語読み: しょき
文化観光部2000年式
マッキューン=ライシャワー式
Seogi
Sŏgi
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書記(しょき)』は百済歴史を記録した本である[1][2]近肖古王の時の博士高興が著述したという[3]が、伝わっていない[1]

高興は近仇首王1年(375年)初めに博士となり、最初に文字を記録する術を知って『書記』を編纂した[1][3]。百済には書記以外にも、『百済記朝鮮語版』『百済新撰朝鮮語版』『百済本記朝鮮語版』などの史書があったというが、伝わっていない[1]

概説[編集]

三国時代百済の学者高興が、第13代近肖古王の時に編纂した歴史書である[2]

三国史記』「百済本紀」近肖古王30年条の末尾に、「古記に曰く、百済は開国以来、いまだ文字で事実を記録することがなかったが、ここに至って博士高興を得て、ようやく書記を持つようになった。しかし、高興はかつて別の本には現れないので、どんな人であるのか知りようがないのである」といい、百済の歴史編纂に関する語句が見えている[2]。ここで書記を歴史書の名でない普通名詞、すなわち公的な文字記録が制度化されはじめたという意味と解し、文書記録あるいは行政文書がこの時からはじまったとみる見解がある[4][5][2][6]

一方、百済は長らくの間、楽浪郡帯方郡に隣接していたために、早くから漢人たちを多く吸収する機会が与えられていて、それらの影響で漢文が普及したことは比較的早い時期と推測し[2]、『三国史記』の「いまだ文字で事実を記録することがなかった」との記事を、『書記』という国史の編纂がまだなかったとの意味とみて、『書記』は単純な文字の記録ではない歴史書と規定する見解がある[2]

征服国家として擡頭した近肖古王の時は、『国史』が編纂された新羅の真興王の時と対比される[2]。百済が国家の制度を整備して対外的な発展を始める頃に編纂したこの本は、中央集権的貴族国家建設の文化的記念塔だということができる[2]

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b c d ウィキソース出典 (朝鮮語)『グローバル世界大百科事典/韓国史/古代社会の発展/三国の成立と発展/古代文学の発展#『書記』』。ウィキソースより閲覧。 
  2. ^ a b c d e f g h 丁仲煥(정중환; チョン・チュンフヮン) (1995年). “서기(書記)” [書記] (朝鮮語). 韓国民族文化大百科事典. 韓国学中央研究院. 2019年3月12日閲覧。
  3. ^ a b 三国史記ウィキソース出典 金富軾 (中国語), 「百済本紀」近肖古王三十年条, ウィキソースより閲覧, "三十年 〔略〕冬十一月 王薨。古記云 百濟開國已來 未有以文字記事 至是得博士高興 始有書記 然高興未嘗顯於他書 不知其何許人也。
    (近肖古王)三十年 〔略〕冬十一月 王薨ず。古記に云う、百済開国已来、未だ文字を以て事を記する有らず、是(ここ)に至って博士 高興を得、始めて書記あり、然るに高興 未だ嘗て他書に顕(あらわ)れず、その何許(いずこ)の人かを知らざるなり、と。
    『(近肖古王の)30年〔略〕冬11月、王が薨じた。『古記』には「百済は開国以来、文字で事件を書き記すということが今までなかった。この(近肖古王の)時になって博士 高興を得て、初めて書記があった。しかし、高興は今まで決して他の書物に現れたことがなく、どこの人かも分からないのである。」という。』"
     
  4. ^ 千寬宇 編『韓國上古史의 爭點』一潮閣朝鮮語版、1975年。 
  5. ^ 김창석『中國系 인물의 百濟 유입과 활동 양상』한국외국어대학교 역사문화연구소〈역사문화연구 60〉、2016年。 
  6. ^ 井上秀雄 1983, pp. 314, 321 ― 「『古記』に、百済は開国以来まだ文字を用いて事柄を記述することができなかった。この〔王代に〕なって、博士の高興(こうこう)を得て、はじめて〔文字を〕書き、〔事を〕記すようになった」(p.314)/「この文章から百済の国史編纂が近肖古王にはじまるとする説が多いが、これは可能性を示すにとどまっている」(p.321)。

関連項目[編集]

参考資料[編集]

  • 金富軾三国史記』 2巻、井上秀雄訳注、平凡社東洋文庫425〉、1983年、314,321頁。ISBN 458280425X 

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