早潟

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早潟
早潟の位置(新潟市内)
早潟
早潟
早潟の位置
早潟の位置(新潟県内)
早潟
早潟
早潟 (新潟県)
北緯37度49分39.21秒 東経138度54分54.75秒 / 北緯37.8275583度 東経138.9152083度 / 37.8275583; 138.9152083
日本の旗 日本
都道府県 新潟県
市町村 新潟市
西区
人口
2018年(平成30年)1月31日現在)[1]
 • 合計 29人
等時帯 UTC+9 (日本標準時)
郵便番号
950-2131[2]
市外局番 025 (新潟MA)[3]
ナンバープレート 新潟

早潟(はやがた)は、新潟県新潟市西区町字郵便番号は950-2131[2]

概要[編集]

1889年(明治22年)から現在の大字。角田山の北東、西川左岸の低平地に位置する[4]

もとは1886年(明治19年)から1889年(明治22年)まであった早潟村の区域の一部で、地名の由来は、文政年間に開拓された潟湖の名称による[4]

隣接する町字[編集]

北から東回り順に、以下の町字と隣接する。

  • 道河原
  • 小瀬
  • 藤野木
  • 赤塚

歴史[編集]

早潟村は、1886年(明治19年)に碇下新田、田巻新田、清左衛門新田、兵左衛門新田が合併して成立した[4]

碇下新田(いかりしたしんでん)
1879年(明治12年)から1886年(明治19年)まであった新田名。角田山の北東、西川左岸の低平地に位置する[5]
かつては早潟という干潟で[6]、小見郷屋村請が改称して成立[7]。1886年(明治19年)に早潟村の一部となる。
小見郷屋村請(おみごうやむらうけ)
江戸時代から1879年(明治12年)まであった村名。角田山の北東、西川左岸の低平地に位置する。地名の由来は小見郷屋村の村請で開発されたことによる[8]
1820年(文政3年)の内野新川開削により、潟湖早潟の干拓が可能となり、近隣4か村が開発に着手。1825年(文政8年)に完成し、幕府出雲崎代官所の検地を受けた[8]
田巻新田(たまきしんでん)
江戸時代から1886年(明治19年)まであった新田名。角田山の北東、西川左岸の低平地に位置する。地名は開発者の藤野木村古料庄屋、田巻三郎左衛門にちなむ[9]
1820年(文政3年)の内野新川開削により、潟湖早潟の干拓が可能となり、近隣4か村が開発に着手。1825年(文政8年)に完成し、幕府出雲崎代官所の検地を受けた[9]
清左衛門新田(せいざえもんしんでん)
江戸時代から1886年(明治19年)まであった新田名。角田山の北東、西川左岸の低平地に位置する。地名は開発者の小瀬村庄屋、熊谷清左衛門にちなむ[10]
1820年(文政3年)の内野新川開削により、潟湖早潟の干拓が可能となり、近隣4か村が開発に着手。1825年(文政8年)に完成し、幕府出雲崎代官所の検地を受けた[10]
兵左衛門新田(へいざえもんしんでん)
江戸時代から1886年(明治19年)まであった新田名。角田山の北東、西川左岸の低平地に位置する。地名は開発者の田島村庄屋、玉木兵左衛門にちなむ[11]
1820年(文政3年)の内野新川開削により、潟湖早潟の干拓が可能となり、藤木村新料の庄屋、内山左衛門が願人となって開発に着手。のちに兵左衛門に譲渡された[11]
1825年(文政8年)に完成し、幕府出雲崎代官所の検地を受けた[11]

年表[編集]

世帯数と人口[編集]

2018年(平成30年)1月31日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]

大字 世帯数 人口
早潟 - 29人

小・中学校の学区[編集]

市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[12]

番地 小学校 中学校
全域 新潟市立小瀬小学校 新潟市立中野小屋中学校

脚注[編集]

注釈

出典

参考文献[編集]

  • 角川日本地名大辞典 編纂委員会『角川日本地名大辞典 15 新潟県』(株)角川書店、1989年10月8日。ISBN 4-04-001150-3 
  • 『新潟歴史双書 8 新潟の地名と歴史』新潟市、2004年3月31日。