文殊院 (松山市)

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文殊院
境内
境内
所在地 愛媛県松山市恵原町308
位置 北緯33度45分52.2秒 東経132度48分38.4秒 / 北緯33.764500度 東経132.810667度 / 33.764500; 132.810667 (文殊院)座標: 北緯33度45分52.2秒 東経132度48分38.4秒 / 北緯33.764500度 東経132.810667度 / 33.764500; 132.810667 (文殊院)
山号 大法山
院号 文殊院
宗派 真言宗醍醐派
本尊 地蔵菩薩文殊菩薩
創建年 (伝)天長元年(824年
開基 (伝)空海(弘法大師)
正式名 大法山 文殊院 徳盛寺
札所等
  • 四国八十八箇所番外
  • 四国別格二十霊場9番
  • 伊予巡錫二十一霊場15番
  • 伊予七福神(毘沙門天)
文化財 八塚(市史跡)
法人番号 1500005000506 ウィキデータを編集
文殊院 (松山市)の位置(愛媛県内)
文殊院
文殊院
地図
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文殊院(もんじゅいん)は愛媛県松山市に所在する真言宗醍醐派の寺院。大法山(だいほうざん)、文殊院(もんじゅいん)、徳盛寺(とくじょうじ)と号す。本尊は地蔵菩薩文殊菩薩四国八十八箇所番外札所、四国別格二十霊場第九番札所、伊予巡錫二十一霊場第十五番札所、伊予七福神毘沙門天

  • 本尊真言(地蔵菩薩):おん かかかびさんまえい そわか
  • 本尊真言(文殊菩薩):おん あらはしゃのう
  • 御詠歌:われ人を すくわんための 先だつに みちびきたまう 衛門三郎

概要[編集]

伝承によれば、西山興隆寺を開創した空鉢上人が八窪のある山中に寺を発祥し、徳盛寺と呼ばれていたが、平安時代初期の天長元年(824年)に空海(弘法大師)が文殊菩薩に導かれてこの地に逗留し文殊院と改めたと言われている。

当地の豪農であった衛門三郎が巡錫中の僧空海に無礼をしたがため、八人の子供が次々と死んでしまったため改心し、空海に懺悔をし詫びるため八カ年・二十一回の四国巡拝をしてやっと出会い、空海に来世は善い行いをしたいと願い命絶え、空海により伊予の国司に生まれ変わったという逸話のある寺である。

当寺はその後、衛門三郎の屋敷跡である現在地に移転されたと言われている。なお、衛門三郎が空海の後を追って四国を巡った旅が四国遍路の始まりとされている。

境内[編集]

火渡り
  • 本堂:中央に秘仏の文殊菩薩が、両脇仏として二体の地蔵菩薩坐像が祀られ、さらに両脇陣に仏像が祀られているがその仏名は不明である。
  • 大師堂:大師像は秘仏
  • 毘沙門堂:本堂と大師堂の間にあり、元旦に毘沙門天像の開帳がある。
  • 本坊

境外[編集]

  • 八ツ塚:当寺の背後の田園の中にあり。衛門三郎の8人の子供たちの墓であるとの伝説があり、それぞれの古墳上には小祠が置かれ石地蔵が祀られている[1]
  • 八窪:当寺から約1 km南西の山の中腹にありスレート小屋で覆われている。八つの窪みがあり、その一つから大師お加持水が湧いている。空海が持っていた鉄鉢が衛門三郎により叩き落され八つに割れて飛んで行った八つの窪みと当寺の伝承ではされている。(八窪GoogleMapで表示される八窪は入り口に当たる民家
  • 役行者堂:役行者(神変大菩薩)が中央に祀られたお堂が、遙遠く石鎚山ロープウェイ山麓駅への参道にある。元は石鎚山への登山道である黒川道にあり女人堂であった。お山開き期間(7月1日~10日)だけ開扉されている。
    • 所在地:愛媛県西条市西之川甲 (役行者堂

文化財[編集]

松山市指定記念物(史跡)
文殊院の北西、愛媛県生涯学習センター近郊にある8基の古墳群。古墳時代末期の円墳と方墳と推定されるが開発等により変形している。文殊院所有の境外地となっている[1]

前後の札所[編集]

四国別格二十霊場
8 十夜ヶ橋 --(国道56号経由 51.4 km)-- 9 文殊院 --(国道11号・県道48号経由 39.7 km)-- 10 西山興隆寺

脚注[編集]

  1. ^ a b c 八ツ塚群集古墳 8基”. 松山市 (2023年8月1日). 2023年8月15日閲覧。

参考文献[編集]

  • 宮崎建樹『四国遍路ひとり歩き同行二人』 解説編(第7版)、へんろみち保存協力会、2007年。 
  • 愛媛県高等学校教育研究会社会科部会 編『新版 愛媛県の歴史散歩』山川出版社〈新全国歴史散歩シリーズ, 38〉、1991年、127頁。全国書誌番号:91035006 
  • 現地説明板[要文献特定詳細情報]

外部リンク[編集]