岸本才三

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岸本 才三(きしもと さいぞう、昭和3年(1928年)5月15日[1] - )は、日本ヤクザ。元公務員指定暴力団・六代目山口組最高顧問、岸本組組長。兵庫県神戸市出身。

[編集] 来歴

昭和3年(1928年)5月15日、兵庫県神戸市で生まれた。実家は農家だった[2]

その後、海軍航空隊を志願した[2]

昭和20年(1945年)8月15日、出撃前に終戦を迎えた。復員後、神戸市市役所の職員になった[2]

昭和30年(1955年)ごろ、三代目山口組(組長は田岡一雄中山組中山一美組長(後に山口組若頭補佐)の舎弟となった[2]

昭和39年(1964年)、神戸市市役所を退職した[2]

昭和48年(1973年)12月、田岡一雄から盃をもらい、山口組直参となった[2]

昭和49年(1974年)、岸本才三は、田岡一雄の組長秘書になった[3]

昭和57年(1982年)2月4日、大阪市生野区今里胃腸病院で、山口組若頭山本健一は、肝硬変腎不全を併発して死去した。これを切っ掛けに山口組四代目跡目問題が浮上した。岸本才三は、山口組四代目に竹中組竹中正久組長を推すグループに属した。

詳細は「山口組四代目跡目問題」を参照

この後、田岡一雄の妻・田岡文子は、山口組若頭補佐筆頭・山本広に山口組若頭就任を要請したが、山本広は断り、組長代行就任を希望した。山口組若頭補佐・小田秀臣は、山口組若頭補佐・中山勝正を山口組四代目に推したが、中山勝正が断ったため、山本広を推すことにした。

同年6月5日、山本広は、組長代行に就任した。

その後、田岡文子は、山口組若頭補佐・竹中正久(後の四代目山口組組著)に若頭就任を要請した。竹中正久は断り、竹中正久は中山勝正を若頭に推薦した。他の直系組長が、中山勝正の若頭就任に反対したため、中山勝正の若頭就任は見送られた。再び、田岡文子が、竹中正久に若頭就任を要請し、竹中正久から承諾を取り付けた。しかし、山口組若頭補佐・溝橋正夫溝橋組組長)が「組長代行だけを置き、若頭は決める必要はない」と主張したため、竹中正久は若頭就任を止め、幹部会への出席を拒否した。

同年6月14日、山本広は電話で、竹中正久に若頭就任を説得したが、竹中正久は拒否した。山本広は、田岡文子に相談した。田岡文子は、竹中正久に電話をし、田岡邸で話し合いことを決めた。竹中正久は、細田組細田利明組長とともに田岡邸に赴き、田岡文子と話し合った。

同日、兵庫県警は、田岡文子を「三代目姐」と認定した。

同年6月15日午前3時、竹中正久は、若頭就任を再度承諾した。

同日午後1時、田岡一雄邸で山口組臨時幹部会が開かれた。山本広、小田秀臣、中西組中西一男組長(後の四代目山口組組長代行)、竹中正久、中山勝正、溝橋正夫が出席し、竹中正久の若頭就任が了承された。

同日、兵庫県警で、2府の府警と31県の県警の暴力団担当者が集まり、「山口組関係警察主管課長会議」が開催された。

同年7月1日、宅見組宅見勝組長が若頭補佐になった。

昭和59年(1984年)6月5日午後3時、山口組直系組長会で、竹中正久は、山口組四代目組長就任の挨拶をした。山本広を支持する直系組長は、直系組長会に出席しなかった。

同日、大阪市東区の松美会(会長は松本勝美)事務所で、山本広、加茂田組加茂田重政組長、佐々木組佐々木道雄組長、溝橋正夫、北山組北山悟組長、松本勝美、小田秀臣ら約20人が、在阪のマスコミ各社を呼んで、記者会見を開き、竹中正久の山口組四代目就任に反対した。

同年6月6日、竹中正久の山口組四代目就任に反対する山口組直系組長は、山口組の山菱の代紋を、組事務所から外した。この段階で、山口組参加者は直系組長42人で総組員数4690人、一和会参加者は直系組長34人で総組員数6021人だった。

同年6月13日、山本広、加茂田重政、佐々木道雄らは、山本広を会長に据えて、「一和会」を結成した。加茂田は、副会長兼理事長に就任した。加茂田重政は、弟の神竜会加茂田俊治会長を、一和会理事長補佐に据え、弟の政勇会加茂田勲武会長を、一和会常任理事に据えた。

山口組福井組福井英夫組長は、山口組宅見組宅見勝組長に説得されて、一和会参加を取り止めて、ヤクザから引退した。小田秀臣も一和会には参加せず、ヤクザから引退した。名古屋市弘田組弘田武組長も、一和会には参加せずにヤクザから引退した。弘田組若頭・司忍(後の六代目山口組組長)が、弘田組を引き継いだ。

同年6月21日、田岡邸大広間で、竹中正久は、23人の舎弟、46人の若中と、固めの盃を執り行なった。

同年6月23日、若頭に中山勝正、舎弟頭に中西一男、筆頭若頭補佐兼本部長に岸本才三を据えた。渡辺芳則、宅見勝、嘉陽宗輝桂木正夫木村茂夫を若頭補佐に据えた。竹中武を竹中組組長、竹中正を竹中組相談役に就けた。竹中武は直系若衆になった。

同年7月10日、徳島県鳴門市の「観光ホテル鳴門」で、山口組襲名式が執り行なわれた。後見人は稲川聖城。取持人は諏訪一家諏訪健治総長。推薦人は住吉連合会(後の住吉会)・堀政夫会長と会津小鉄会(後の会津小鉄)・図越利一会長、大野一家大野鶴吉総長、今西組辻野嘉兵衛組長、松浦組松浦繁明組長、大日本平和会平田勝市会長、森会平井龍夫会長、草野一家草野高明総長。見届け人は翁長良宏。媒酌人は大野一家義信会津村和磨会長。霊代は、田岡文子。竹中正久は、四代目山口組襲名相続式典の祝儀全部を、田岡文子に渡し、田岡文子はその三分の一だけを受け取った

昭和59年(1984年)8月5日、山一抗争が勃発した。

詳細は「山一抗争」を参照

昭和63年(1988年)6月ごろ、山口組五代目跡目問題が浮上した。

詳細は「山口組五代目跡目問題」を参照

平成元年(1989年)2月27日、山口組定例総会で、竹中組竹中武組長の山口組若頭補佐就任が発表された。

同年4月20日、山口組緊急幹部会が開かれ、山口組五代目の人選が議論された。竹中武は、態度を保留した。四代目山口組若頭渡辺芳則と四代目山口組組長代行・中西一男が話し合い、中西一男が五代目山口組組長立候補を取り下げた。渡辺芳則の山口組五代目擁立が決まった。

同年4月27日、山口組直系組長会で、中西一男が、五代目山口組組長立候補取り下げの経緯を説明した。渡辺芳則の五代目山口組組長就任が決定した。

同年4月下旬、神戸市花隈の山健組事務所で、渡辺芳則と岸本才三と近松組近松博好組長が、竹中武を山口組に留め置くことを確認し、竹中武の連れ戻しを協議した。しかし、山口組若頭補佐・宅見勝宅見組組長)は、竹中武の連れ戻しに反対だった。宅見勝は、山口組心腹会尾崎彰春会長に依頼して、岸本才三に、竹中武の連れ戻しを断念させた。渡辺芳則も宅見勝の考えに同調し、竹中武の連れ戻しは白紙になった。

同年5月10日、山口組緊急執行部会で、宅見勝の山口組若頭就任が内定した。竹中武は、緊急執行部会を欠席した。

同年5月18日、山口組本家で、渡辺芳則は、舎弟24人、若衆45人と盃直しを行なった。尾崎彰春の実子・尾崎勝彦ら4人が新たに直参になった。竹中武、二代目森川組矢嶋長次組長、牛尾組牛尾洋二組長、森唯組森田唯友紀組長は欠席した。

同年5月27日、渡辺芳則は、山口組最高顧問を新設し、中西一男を最高顧問に据えた。渡辺芳則は、英組英五郎組長、倉本組倉本広文組長、黒誠会前田和男会長、弘道会司忍会長、芳菱会滝澤孝総裁を、若頭補佐に据えた。渡辺芳則は、益田啓助を舎弟頭に据えた。渡辺芳則は、章友会石田章六会長、大石組大石誉夫組長、西脇組西脇和美組長を舎弟頭補佐に据えた。嘉陽宗輝桂木政夫(後に舎弟頭補佐)、木村茂夫は舎弟となった。岸本才三は舎弟となり、山口組総本部長となった。野上哲男は、山口組総本部副本部長となった。益田佳於、小西音松、伊豆健児は、顧問に就任した。新人事には、宅見勝の意向が強く反映された。

同年6月4日、岸本才三、西脇和美、神戸市の佐藤組佐藤邦彦組長が、竹中武を訪ね、「竹中正久の位牌と仏壇を受け取ってもらいたい」と頼んだ。竹中武は竹中正久の位牌と仏壇を受け取った[4]

同年6月5日、山口組定例会で、竹中武、矢嶋長次、牛尾洋二、森田唯友紀の山口組脱退が発表された。

同年6月25日、竹中武は、中西一男、石田章六、倉本広文、前田和男の訪問を受け、山口組の守り刀の譲り渡しを了承した。ただし、守り刀は文化庁に登録されていたため、新たに渡辺芳則の名前で登録しなければ、銃砲刀剣類所持等取締法第14条違反となった。竹中武は、渡辺芳則に、山口組代紋の山菱が施された純金製三つ重ねの金杯を送った。

同日、「五代目山口組幹部一同」の名前で、他団体に向けて「竹中武、矢嶋長次、森田唯友紀、牛尾洋二は、今後五代目山口組とは何ら関係なし」とする文書を送付した。これを切っ掛けにして山竹抗争が勃発した。

詳細は「山竹抗争」を参照

同年7月20日、神戸市灘区の山口組本家2階の80畳敷きの大広間で、渡辺芳則の山口組五代目襲名相続式典が行われた。媒酌人は大野一家義信会津村和磨会長、後見人は稲川会稲川聖城総裁、取持人は稲川会石井隆匡会長、奔走人は稲川会・稲川裕紘理事長(後の三代目稲川会会長)。推薦人は、四代目会津小鉄会・図越利一総裁、松葉会中村益也会長、四代目今西組辻野嘉兵衛組長、三代目森会平井龍夫会長、二代目大日本平和会平田勝義会長、侠道会森田幸吉会長、工藤連合草野一家工藤玄治総裁、四代目小桜一家神宮司文夫総裁、住吉連合会堀政夫総裁。見届人は、導友会愛桜会、四代目砂子川組、三代目倭奈良組、三代目互久楽会、二代目大野一家、三代目南一家、四代目佐々木組諏訪会、二代目松浦組、三代目旭琉会。霊代は、中西一男。しかし、兵庫県警が、山口組五代目襲名式阻止の方針を打ち出したため、実際に山口組五代目襲名相続式典に出席したのは、山口組直系組長92人と、稲川聖城、石井隆匡、稲川裕紘、五代目酒梅組谷口政雄組長、東亜友愛事業組合沖田守弘理事長、双愛会石井義雄会長ら10数人の親戚筋だけだった。渡辺芳則は、先代である竹中正久の内妻・中山きよみに、全く祝儀を届けなかった[5]

平成2年(1990年)1月4日午後4時すぎ、札幌事件が勃発した。

詳細は「札幌事件」を参照

同年2月15日、八王子事件が勃発した。

詳細は「八王子事件」を参照

平成8年(1996年)7月10日、中野会会長襲撃事件が発生した。

詳細は「中野会会長襲撃事件」を参照

平成9年(1997年)8月28日午後3時20分ごろ、宅見若頭射殺事件が発生した。

詳細は「宅見若頭射殺事件」を参照

平成19年(2007年)10月5日、山口組定例会で、岸本才三の引退が発表された[6]

[編集] 脚注

  1. ^ 出典は、溝口敦『山口組ドキュメント 五代目山口組』三一書房、1990年、ISBN 4-380-90223-4の「五代目山口組本家組織図」
  2. ^ a b c d e f 出典は、『六代目山口組 完全データBOOK』メディアックス、2008年、ISBN 978-4-86201-328-6のP.154
  3. ^ 出典は、『六代目山口組 完全データBOOK』メディアックス、2008年、ISBN 978-4-86201-328-6のP.155
  4. ^ 通常、先代の位牌と仏壇は、当代が管理する
  5. ^ 通常は、襲名相続式典の祝儀の半分を、先代組長の未亡人に贈る。竹中正久は、四代目山口組襲名相続式典の祝儀全部を、田岡文子に渡し、田岡文子はその三分の一だけを受け取った
  6. ^ 出典は、『六代目山口組 完全データBOOK』メディアックス、2008年、ISBN 978-4-86201-328-6のP.59

[編集] 参考文献

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