竹中正久
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竹中 正久(たけなか まさひさ、1933年11月30日 - 1985年1月27日)は、日本のヤクザ。四代目山口組組長。 兵庫県飾磨郡御国野村深志野(後の姫路市深志野町)出身。 「荒らぶる獅子」と呼ばれた。
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[編集] 来歴
昭和8年(1933年)11月30日、兵庫県飾磨郡御国野村字深志野(後の姫路市深志野町)で生まれた。父は長谷川龍次。母は竹中愛子。長谷川龍次は御国野村村議会議員で、竹中家に養子に入った。竹中家には、よく木下会・木下亀次会長が訪れていた。
昭和9年(1934年)1月、竹中正久の祖父で御国野村助役で土建業の長谷川英正が死亡した。享年62。
同年5月、長谷川龍次が竹中家の家督を継ぎ、国道2号線沿いの山陽本線御着駅近くで料理屋を開業した。その後、竹中(長谷川)龍次は、博打で大損をして、田畑を失った。
昭和12年(1937年)、弟の竹中正(後に姫路市の竹中組相談役)が生まれた。
昭和15年(1940年)4月、竹中正久は御国野小学校に入学した。
昭和18年(1943年)8月6日、弟の竹中武(後の四代目山口組若頭補佐。岡山市の竹中組組長)が生まれた。
昭和20年(1945年)立命館大学学生だった竹中家次男の竹中良男が、危険思想者として特別高等警察に逮捕されて、拷問を受けた。その後、竹中良男は放免された。
同年、中国牡丹江の南満州鉄道系百貨店に勤務していた長兄・竹中龍馬が、現地召集された。
同年6月22日午前11時、B29の9機編隊が、姫路市の川西航空機の工場付近を空襲した。
同年6月26日、B29が再度姫路市を空襲した。
同年7月3日深夜、B29が飛来し、姫路市を空襲した。3回の空襲で、姫路市では514人が死亡し、総戸数の40%が消失し、羅災者は55000人を超えた。竹中の家は、被災を免れた。
昭和21年(1946年)4月、竹中正久は旧制姫路市立鷺城中学校(後の姫路市立姫路高校)に進学した。
同年4月30日、父・竹中龍次が、結核に前立腺肥大と尿毒症を併発して死亡した。享年52。やがて、竹中龍次の料理店は廃業となった。
同年、長兄・竹中龍馬が復員し、鉄工所に勤務した。
同年9月、竹中正久は、他校生と喧嘩になり、旧制姫路市立鷺城中学校を退学した。その後、竹中正久は、地元・深志野の横井一巳の製瓦工場で働いた。
昭和23年(1948年)12月、次兄・竹中良男が死亡した。
昭和24年(1949年)6月、横井一巳が製瓦工場を、桜井熊次に売った。
同年12月、竹中正久は、製瓦工場を辞めた。このころ、村人が、竹中の親戚の産婆を突き飛ばした。竹中正久は、この村人の畑で、西瓜や南瓜などを日本刀で斬った。その後、竹中正久は警察に突き出され、説諭された。
昭和26年(1951年)10月、竹中正久は、知り合いに借金返済を強要して脅迫した。竹中正久は恐喝容疑で逮捕され、神戸市の鑑別所に送られた。鑑別所で、竹中正久は、宇野正三(父は、兵庫県明石市の三代目山口組(組長は田岡一雄)宇野組・宇野加次組長)と知り合った。その後、竹中正久は、奈良少年刑務所付置特別少年院に送致された。竹中正久は、奈良特別少年院で、宇野正三と再会した。
昭和27年(1952年)10月、竹中正久は、宇野正三と「お互いが出所したら、兄弟分になる」と約束した。
昭和28年(1953年)6月、竹中正久は、奈良少年院を出所し、姫路市御国町に戻った。母の愛子は、竹中正久の姉とともに食料品店を始めた。弟の竹中正は、兵庫県立姫路東高等学校に進学したが、1年で中退した。
このころ、竹中正久は、御着の実家を拠点として、竹中英男、竹中正、竹中修、竹中武、坪田英和(後の竹中組初代若頭)、徳平正春、中塚昭男、平尾光、笹井啓三、桂勇一、西尾健太郎らと愚連隊を形成していった。竹中英男は、明石市の博徒・矢嶋清(後の四代目山口組舎弟・矢嶋長次の父)に弟子入りし、熱海市の鶴政会(後の稲川会。会長は稲川角二で、後の稲川聖城)の賭場などに出入りした。竹中正久は、週に1、2回ほど、姫路市総社の旅館「大阪屋」で、手本引きの賭場を開き、竹中英男に胴師を、竹中正や竹中武らに合力(進行係)をさせた。
このころ、竹中正久は、姫路市で、学生愚連隊・青空会8人と喧嘩になり、3人を匕首で突いて、怪我を負わせた。
昭和32年(1957年)4月14日、竹中正久らの愚連隊は、山口組宇野組の者と明石公園で花見をした帰りに、明石駅前で、喧嘩を起こした。警官10人が駆けつけたとき、竹中正久たちの喧嘩相手は逃げていた。竹中正久たちは、警官に逮捕されそうになり、抵抗して乱闘となった。竹中正久は、公務執行妨害などで逮捕された。このとき、徳平正春は別件で恐喝を働いていた。竹中正久は、徳平正春の恐喝罪も自分で背負った。竹中正久は、神戸市大久保の神戸刑務所に1年間服役した。
竹中正久の不在の間、竹中正久の愚連隊は、竹中英男の博打による収益だけを頼った。
昭和33年(1958年)、竹中正久は出所し、拠点を姫路市光源寺前町の麻雀荘「KO麻雀」に移した。竹中正久は「KO麻雀」で、中山きよみ(後に竹中正久の内縁の妻)と知り合った。
昭和35年(1960年)、竹中英男が結婚し、御着の竹中家の実家の裏に木造二階建ての新居兼賭場を建てた。このころ、すでに、竹中英男は結核だった。竹中英男は、野球賭博や金融業をやり始めた。
同年、竹中英男に大島組からの盃の話が起こったため、竹中正久は、兄弟分の宇野正三に相談した。宇野正三が竹中英男に真意を確かめると、竹中英男は大島組入りを拒否し、「兄の竹中正久を一人前にさせたい」と言った。宇野正三は、父の山口組宇野組・宇野加次組長に、竹中正久の山口組入りを頼んだ。宇野加次は、竹中正久を、山口組若頭・地道行雄に推薦した。姫路市の湊組・湊芳治組長と姫路市の渋谷組・渋谷文男組長が、竹中正久の山口組入りに反対した。地道行雄は、博打で竹中英男と顔見知りだった今治市の矢嶋組・矢嶋長次組長を、竹中正久のもとに送り、竹中正久の反応を確かめた。竹中正久は、山口組入りに拘ってはいなかった。
昭和36年(1961年)、竹中武は、長兄・竹中龍馬から金を借り、山陽電鉄姫路駅裏の南地の3階建ての家を借りて、売春宿「25時」を開いた。その後、竹中英男が、姫路市の三代目山口組湊組の手本引き賭博で大負けした。竹中武が、竹中英男の負け分を支払った。
同年12月13日、神戸市生田区橘通りの山口組事務所で、竹中正久は、地道行雄の推薦で、田岡一雄から盃をもらい、田岡一雄の若衆となった。細田組・細田利光組長(後の若頭補佐・細田利明の父)、小野組・小野新次組長、中村組・中村憲逸組長、前本組・前本重作組長らの山口組直参や、湊芳治らの田岡一雄の舎弟が見届け人となった。その後、竹中正久は神戸市三宮の「神戸観光ホテル」で行われた山口組「御事始(事始)」に出席した。
同年、竹中英男の発案で、竹中正久は、竹中正久の舎弟全員を、竹中正久の若衆とした。
昭和37年(1962年)1月16日、夜桜銀次事件が勃発した。
詳細は「夜桜銀次事件」を参照
同年3月、竹中武の発案で、竹中組の積立金制度が始まった。
同年9月、竹中正久は、福岡拘置所から保釈で出た。この間、中山きよみが南地の新地で経営するスタンドバー「いこい」の売り上げだけが、竹中組の収入だった。
同年9月、竹中正久は、妹婿の河井明(岡山市の博徒)の紹介で、森田三郎に盃を与えて、竹中正久の舎弟とした。森田三郎は、岡山市で、森田組を結成した。
同年、姫路市本町の岡田組(組長は岡田守一)事務所2階で、竹中正久は他の竹中組組員と正式に盃を交わした。取持人は岡田守一だった。その後、竹中組組員は50人に増えた。
同年11月、「25時」の女性従業員の愛人(木下会会員)が、「25時」で閉店間際まで飲んでいたため、竹中武の若衆が木下会会員を下駄で殴って追い出した。女性従業員が警察に訴えたため、竹中武は傷害で逮捕され、神戸の鑑別所に送られ、その後保護観察処分となった。竹中正久たちは、「25時」を営業することが困難になったため、竹中組事務所として使うことにした。
同年12月、竹中正久の若衆・森田三郎がノミ行為を失敗し、岡山市の人に対して借金を作った。竹中武が借金の問題を解決するために、岡山市に行った。その後、竹中武は岡山市に定住した[1]。その後、竹中武は、岡山市で、竹中組を設立した。
同年、田岡一雄は、竹中正久をボディーガード役に据えた。
昭和38年(1963年)、竹中英男は、姫路市の旅館を買い取り、料理旅館としてリニューアルさせた。
同年2月、神戸市須磨区の料亭「寿楼」で、右翼活動家・児玉誉士夫の取り持ちにより、田岡一雄を兄、東声会・町井久之会長を弟とする結縁式が行われた。結縁式には、阿部重作・住吉会名誉顧問、稲川角二・錦政会会長、関根賢・関根建設社長・松葉会顧問(元関根組組長)、磧上義光・住吉一家四代目総長兼港会会長、波木量次郎・並木一家三代目総長が出席した。田岡一雄は組員1000人を神戸と須磨の会場に配置し、竹中正久に児玉誉士夫や稲川角二、関根賢らの世話を任せた。
同年4月17日、第二次広島抗争が勃発した。
詳細は「広島抗争#第二次広島抗争」を参照
同年11月9日午後6時9分ごろ、田中清玄銃撃事件が勃発した。
詳細は「田中清玄銃撃事件」を参照
昭和39年(1964年)1月 、「暴力取締対策要綱」が設置された。
同年2月、警視庁が「組織暴力犯罪取締本部」を設置し、暴力団全国一斉取締り(第一次頂上作戦」)を開始した。
同月、母の愛子が膵臓癌で死亡した。享年60。愛子の葬式には、田岡一雄の妻・田岡文子が参列した。
同年春、竹中正久は、姫路市十二所前町に、3階建ての竹中組事務所兼自宅を竣工させた。土地が380万円、建物が500万円だった。
同年6月、竹中英男が結核で死亡した。
昭和40年、山口組に対する第一次頂上作戦が開始された。
詳細は「第一次頂上作戦#山口組に対する第1次頂上作戦」を参照
同年5月21日、田岡一雄は、東京港区_(東京都)芝高輪のプリンスホテル(現在のグランドプリンスホテル高輪)で行われた「全国港湾荷役振興協会」の会議に出席した[2]。竹中正久はボディガードとして田岡一雄についた。
同日夜、赤坂のちゃんこ屋で、田岡一雄は、高倉健・江利チエミ夫婦、清川虹子、宮城千賀子らと会食した。
同日12時ごろ、田岡一雄は竹中正久にめまいと胃痛と肩こりを訴えた。
同年5月23日、田岡一雄は、清川虹子の勧めで、東京都渋谷区松濤のセントラル病院に入院した。
昭和44年(1969年)、警視庁は姫路市など全国14箇所を「暴力団汚染地域」と認定した。
同年、姫路市の南地で、小川会(会長は小川春夫)組員が、竹中組組員に発砲した。竹中組組員に怪我はなかった。竹中正久は、竹中組若頭・坪田英和に命じて、竹中組組員を数班に分けさせて、小川会幹部宅や小川会事務所を襲撃させた。
同年12月、姫路警察署は、竹中組による小川会襲撃を知り、凶器準備集合罪で竹中正久や竹中組幹部を逮捕しようとした。凶器は発見されていなかったため、竹中正久は凶器の提示を求めて抵抗した。姫路警察署は、暴力行為と公務執行妨害を追加して、竹中正久を逮捕した。竹中組幹部約20人も逮捕された。竹中正久は長田警察署の留置場に身柄拘束された。竹中正久は、夜桜銀次事件での凶器準備集合罪の上告を取り下げ、刑を確定させて、留置場にいる期間を、服役期間に変えさせた。その後、小川会・小川春夫会長は、竹中組組員に発砲した小川会組員を絶縁し、小川会を解散させた。
昭和46年(1971年)6月、竹中正久は、昭和44年(1969年)に起こした凶器準備集合罪や公務執行妨害による身柄拘束を解かれた。竹中正久らは、姫路市のヘルスセンターで、放免祝いを行った。
同年7月、竹中組組員・瀬古武志が、野球賭博での勝ち金を支払わない白龍会藤沢組若頭・長谷川智一を刺身包丁で刺殺した[3]。瀬古武志は、竹中組幹部・橘貴智雄の甥・橘俊二に車を運転させて、長谷川智一の遺体を運び、仁寿山山中に遺体を埋めた。
同年9月5日、山本健一が、三代目山口組若頭に就任した。まもなく、山口組若頭補佐の小田芳一(小田吉一とも名乗った)が、山本健一の若頭就任に反対して、若頭補佐・菅谷政雄に「若頭補佐を降りたい」と云った。菅谷政雄は、田岡一雄に相談した。田岡一雄は、小田芳一を若頭補佐から解任した。山口組若頭補佐には、山広組・山本広組長、菅谷組・菅谷政雄組長、清水組・清水光重組長、小田秀組・小田秀臣組長、中西組・中西一男組長、大平組・大平一雄組長(本名は松浦一雄)、竹中正久の7人が任命された。
昭和47年(1972年)、竹中正久は、菅谷政雄と、菅谷政雄が岡本組・岡本雅博組長(後の五代目山口組若中。岡本雅博は第1次松山抗争で矢嶋長次と抗争していた)を舎弟にした件で、話し合った。岡本雅博との盃を取り持った菅谷組若頭代行が、矢嶋長次に詫びを入れて解決した。
同年、竹中正久は、岡山県津山市の元山陰柳川組津山支部長・杉本明政と小椋義政に盃を与え、竹中正久の若衆とした。杉本明政は、竹中組津山支部を名乗り、小椋義政は竹中組津山支部の代貸となった。
同年3月8日午後10時ごろ、竹中正久は、坪田英和(初代竹中組若頭)、竹中組若頭・長尾米八、橘貴智雄と、姫路市魚町の飲食店ビル2階のクラブで酒を飲んだ。その後、竹中正久は、坪田英和のみを連れて、先に次のクラブに移った。長尾米八と橘貴智雄は遅れてクラブを出て、飲食店ビル前で高松市の坂井組元準構成員・津吉隆俊と喧嘩になった。長尾米八は津吉隆俊にナイフで顔を斬られ、橘貴智雄は津吉隆俊にナイフで腹を刺され、ともに重傷を負った。坪田英和は、次のクラブに来ない長尾米八と橘貴智雄を探しに出かけ、津吉隆俊を追いかけていた橘貴智雄を発見した。坪田英和が、橘貴智雄に代わって、津吉隆俊を追ったが、魚町の小料理屋の前で、津吉隆俊に胸をナイフで刺された。近くにいた湊組組員たちが集まり、1人が坪田英和をタクシーで病院に運び、他の湊組組員で津吉隆俊を追った。津吉隆俊は、姫路市西塩町のクラブ「オウリョクコウ」逃げ込み立て篭もった。湊組組員1人が竹中組事務所に電話を入れた。岡山市の竹中組組員・貝崎忠美が竹中組事務所で湊組組員からの電話を受け、竹中組若頭補佐・坂本義一(後の竹中組舎弟頭)に事件を報告した。貝崎忠美は、木刀を持って「オウリョクコウ」に行ったが、竹中組事務所に戻り、竹中組事務所1階の台所から菜切り包丁を持ち出して、再び「オウリョクコウ」前に戻った。通報を受けた姫路警察署の警官隊が「オウリョクコウ」に突入し、津吉隆俊の身柄を確保した。貝崎忠美は、警官隊に連行されていた津吉隆俊の左胸を菜切り包丁で突いて、刺殺した。貝崎忠美は、姫路警察署の警官に、殺人及び公務執行妨害の現行犯で逮捕された。その後、貝崎忠美は懲役12年の判決を受けて、服役した。
同年10月、山口組若頭・山本健一、山口組組舎弟頭・松本一美、山口組若衆・桜井隆之、稲川会・石井進理事長(後の石井隆匡)、稲川会・松岡良次郎常任理事、秋山組・徐在鎮組長、白龍会・山田忠一会長、一力会・鍋島力夫会長らは、姫路市の竹中組事務所3階の16畳の大広間で、賭博を行った。胴元は竹中正久だった。賭博は5、6日間続き、総額50億円が動き、テラ銭は1億円以上になった。
昭和48年(1973年)9月、兵庫県警は、昭和47年(1972年)に竹中組事務所3階で賭博が行なわれた事実を掴んだ。
同年9月28日朝、兵庫県警捜査4課は、竹中正久ら17人の逮捕状を取り、機動隊1個中隊を含む300人の警察官を使って、関連組事務所や各容疑者の自宅など25箇所を捜索したが、17人全員が逃亡していた。警察は竹中正久ら17人を指名手配した。その後、兵庫県警は、竹中正久らを逮捕したが、賭博開帳日を特定できなかった。
昭和49年(1974年)3月、昭和47年(1972年)竹中組事務所3階で行われた賭博に関して、容疑者30人全員が起訴猶予となった。その後、竹中正久は、稲川会・稲川聖城会長を訪ね、賭博捜査で稲川会の人間を巻き込んだことを詫びた。
同年、竹中武は、瀬古武志の長谷川智一殺害を知り、瀬古武志に事実を問い質した。竹中武は、瀬古武志とともに、仁寿山で長谷川智一の遺体を確認した。
同年、姫路警察署は竹中組組員を延べ166人逮捕した。
同年6月、兵庫県警と姫路警察署は、瀬古武志を別件で逮捕し、長谷川智一殺害を自供させた。
同年7月、警察は、瀬古武志を殺人と死体遺棄で再逮捕し、仁寿山で長谷川智一の遺体を発見した。
昭和50年(1975年)7月26日深夜、大阪戦争が勃発した。
詳細は「大阪戦争」を参照
昭和51年(1976年)2月初め、山本健一、大平一雄、竹中正久、小西一家・小西音松総長、益田組・益田佳於組長、二代目細田組・細田利明組長、加茂田組・加茂田重政組長、京都市の山崎組・山崎正組長、西宮市の桜井組・桜井隆之組長らが、葬式の帰りに山口組本部に寄り、チンチロリン賭博を行なった。
同年3月初旬、山本健一、大平一雄、竹中正久、小西音松、益田佳於、細田利明、加茂田重政、山崎正、桜井隆之らが再び山口組本部で、本引き賭博を行なった。細田利明が胴元を務め、テラ銭1500万円を得た。このうち、450万円が大平一雄に渡り、そのうちの225万円が山本健一に渡った。
同月3月20日、山本健一、大平一雄、竹中正久、小西音松、益田佳於、細田利明、加茂田重政、山崎正、桜井隆之らが再び山口組本部で、本引き賭博を行なった。竹中正久が胴元を務めた。加茂田重政の負けが通算3500万円になった。田岡一雄は、山口組本部で賭博が行なわれていることを知り、山本健一、竹中正久、大平一雄、小西音松を関西労災病院(後の関西ろうさい病院)に呼び、厳重注意した。
同年4月、山本健一、小田秀臣、竹中正久、山本広、中西一男ら山口組幹部8人は資本金6千万でビル管理を主業務とする「東洋信用実業」を設立し、役員となった。東洋信用実業は、「山口組会館」(後の四代目山口組本部)を建設した。また、それまで山口組幹部が田岡一雄の名代として使う慶弔の費用は、田岡一雄から出ていたが、上納金(山口組会費)から出すようにした[4]。また、山口組若頭補佐が山口組幹部名で出す慶弔の費用も、上納金から出すようにした。
同月、田岡一雄は、菅谷政雄の謹慎を解くことを、山本健一に指示した。菅谷政雄は、若頭補佐を解任され、筆頭若衆に降格となった。
同年12月、上原勇吉は、山口組若頭補佐・大平一雄から盃をもらい、山口組に参加した。これにより、山口組は第4次沖縄抗争に参加することになった。
詳細は「第4次沖縄抗争」を参照
昭和52年(1977年)1月24日、菅谷政雄は、川内弘を破門とした。これを切っ掛けに、三国事件が勃発した。
詳細は「三国事件」を参照
同年4月15日、三国事件を受け、山口組本部[5]は、菅谷政雄を絶縁とした。
昭和53年(1978年)2月、竹中正久は、昭和44年(1969年)に起こした凶器準備集合罪や公務執行妨害などの上告が棄却され、懲役2年の実刑判決が確定した。
同年4月、竹中正久は神戸刑務所に服役した。
同年11月22日、兵庫県警は、昭和51年(1978年)の山口組本部での賭博で、山本健一、竹中正久、大平一雄、細田利明ら14人を指名手配または逮捕した。竹中正久は、神戸刑務所から灘警察署に移管されて取り調べられた。山口組本部長だった大平一雄が、全ての責任を引き受けた。大平一雄は執行猶予付きの懲役刑となり、他の者は罰金刑となった。
昭和54年(1979年)1月、長兄・竹中龍馬が死んだことを知らされた。竹中龍馬は57歳だった。
同年9月、竹中正久は神戸刑務所から出所した。
同年12月、竹中正久は杉本明政を竹中組若頭に据えた[6]。
昭和55年(1980年)1月8日、竹中正久は常習賭博で起訴された。
同年1月10日、姫路事件が勃発した。
詳細は「姫路事件」を参照
同年3月上旬と中旬、竹中正久は、矢嶋長次、長谷一雄、稲川会・林喜一郎副会長、忠政会・大森忠明会長、松正会・山本真喜夫会長らを招待して、竹中組若頭補佐・大西康雄宅などで、2回に渡ってサイ本引き賭博を開いた。両日で賭け金3、4億円が動いた。
同年7月14日、神戸地方裁判所は、竹中正久に、懲役5ヶ月の判決を出した。竹中正久は控訴した。
昭和56年(1981年)5月、菅谷政雄が府中刑務所から出所した。菅谷政雄は、すぐに心臓病で神戸市の病院に入院した。菅谷組舎弟頭・浅野二郎や菅谷組生島組・生島久治組長(通称はサージ)が、竹中正久、加茂田重政、中山勝正と会い、「菅谷政雄を説得して、引退させる」と伝えた。
同年6月12日、神戸市の料亭で、田岡一雄は、竹中正久、加茂田重政とともに自宅で菅谷政雄と会った。田岡一雄は、菅谷政雄自身の口から、菅谷政雄が堅気になった旨を聞き、菅谷政雄からの詫びを受け入れた。山口組が、解散後の菅谷組を吸収することになった。
同年7月23日、田岡一雄は、急性心不全により死去した。
同年8月1日、山口組最高幹部会は、田岡一雄の組葬の葬儀委員長を、稲川聖城に依頼し、了承された。
同年8月25日、加茂田重政が、兵庫県警に、常習賭博容疑で逮捕された。
同年10月、兵庫県警は「山口組解体作戦本部」を設置した。
同年10月25日、神戸市灘区篠原本町の田岡邸で、山口組組葬が行なわれた。喪主は、妻の田岡文子。葬儀執行委員長は、稲川会・稲川聖城会長だった。服役中の山本健一が、副葬儀委員長だった。約1300人が参列した。
山口組の運営は、山本健一の出所まで、山本広、小田秀臣、中西一男、竹中正久、益田芳夫、加茂田重政、豪友会・中山勝正会長、溝橋組・溝橋正夫組長と、田岡文子で行なわれることになった。
同年10月29日、昭和55年(1980年)3月上旬と中旬に開いた賭博により、竹中正久、竹中武、杉本明政、矢嶋長次、長谷一雄、林喜一郎、大森忠明、山本真喜夫らが、兵庫県警に逮捕された。警察は、テラ銭を1億5000万円と推定した。
同年11月18日、竹中正久は常習賭博で起訴され、姫路拘置所に収監された。
同年12月、大阪府警は「山口組集中取締対策本部」を設置した。
昭和57年(1982年)2月4日、大阪府大阪市生野区巽南の今里胃腸病院で、山本健一は、肝硬変と腎不全を併発して死去した。これを切っ掛けに山口組四代目跡目問題が浮上した。
詳細は「山口組四代目跡目問題」を参照
同年3月13日、竹中正久は姫路拘置所から保釈された。
同年3月15日、竹中正久の確定申告の締切日だった。兵庫県警は、昭和55年(1980年)3月上旬と中旬に竹中組で開かれた賭博でのテラ銭1億5000万円などを竹中正久の所得と認定し、大阪国税局に課税するように通報した。
同年3月18日、兵庫県警山口組解体作戦本部、大阪国税局、神戸地方検察庁は、姫路市の竹中組事務所や岡山市の竹中組事務所などを一斉捜索した。
同年4月27日、山本健一の山口組組葬が、田岡邸の隣で行なわれた。施主は田岡文子、葬儀執行委員長は山口組筆頭若頭補佐・山本広、葬儀執行副委員長は、小田秀臣、中西一男、竹中正久、益田芳夫、加茂田重政、中山勝正、溝橋正夫だった。葬儀出席者は900人だった。
同年5月1日、山健組健竜会・渡辺芳則会長(後の五代目山口組組長)が、山健組を継承し、山口組直参となった。
この後、田岡文子は、山本広に山口組若頭就任を要請したが、山本広は断り、組長代行就任を希望した。小田秀臣は中山勝正を山口組四代目に推したが、中山勝正が断ったため、山本広を推すことにした。
同年6月5日、山本広は、組長代行に就任した。
その後、田岡文子は、竹中正久に若頭就任を要請した。竹中正久は断り、竹中正久は中山勝正を若頭に推薦した。他の直系組長が、中山勝正の若頭就任に反対したため、中山勝正の若頭就任は見送られた。再び、田岡文子が、竹中正久に若頭就任を要請し、竹中正久から承諾を取り付けた。しかし、溝橋正夫が「組長代行だけを置き、若頭は決める必要はない」と主張したため、竹中正久は若頭就任を止め、幹部会への出席を拒否した。
同年6月14日、山本広は電話で、竹中正久に若頭就任を説得したが、竹中正久は拒否した。山本広は、田岡文子に相談した。田岡文子は、竹中正久に電話をし、田岡邸で話し合いことを決めた。竹中正久は、二代目細田組・細田利明組長とともに田岡邸に赴き、田岡文子と話し合った。
同日、兵庫県警は、田岡文子を「三代目姐」と認定した。
同年6月15日午前3時、竹中正久は若頭就任を再度承諾した。
同日午後1時、田岡邸で山口組臨時幹部会が開かれた。山本広、小田秀臣、中西一男、竹中正久、中山勝正、溝橋正夫が出席し、竹中正久の若頭就任が了承された。
同日、兵庫県警で、2府の府警と31県の県警の暴力団担当者が集まり、「山口組関係警察主管課長会議」が開催された。
同年7月中旬、竹中正久は「近々、神戸地方検察庁が証拠を固めて、脱税容疑で逮捕に来る」という情報を手に入れた。
同年7月28日、加茂田重政は、大阪市北区の曽根崎警察署に出頭し、常習賭博容疑で逮捕された。
同年8月25日、竹中正久と妻・中山きよみが、所得税法違反容疑で指名手配され、竹中組事務所まで40箇所が捜索された。竹中武は脱税の共謀容疑で逮捕された。
同年8月26日午後3時ごろ、竹中正久は、細田利明に付き添われて神戸地検に出頭し、所得税法違反容疑で逮捕された。
同年9月16日、竹中正久は、1億9439万円を脱税したとして、起訴された。神戸拘置所は、竹中正久に対して、接見禁止とした。
同年12月、竹中組組員が、小西一家本部事務所に銃弾を撃ち込んだ。
昭和58年(1983年)2月、竹中正久の神戸拘置所での接見禁止が解かれた。
同年6月8日、兵庫県警は、カルティエの偽造・密売容疑で、田岡邸を捜索した。
同年6月9日、元ロイヤル・ジャパン社長・溝原伸一と田岡満が釈明記者会見を開いた。溝原伸一は、カルティエ偽造の主犯と目されていた。田岡満は、溝原伸一の取引相手だった。
同年6月21日、竹中正久は、神戸拘置所から保釈された。竹中正久は、中村憲逸、小野新治、石川尚、細田利明らとともに、姫路の竹中組事務所に戻った。
同年6月29日、神戸市中央区の神戸ポートピアホテルで、甲陽運輸(社長は田岡一雄の長男・田岡満)の創立30周年記念パーティーが開催された。司会は長沢純。甲陽運輸30年の歴史が、石坂浩二のナレーションで紹介された。鶴田浩二、八代亜紀、森進一、五木ひろし、細川たかし、勝新太郎、美空ひばりが挨拶した。
同年7月2日、姫路市の武田組・武田肇組長が武田組を解散して、ヤクザから引退した。
同日、細田利明は、大阪府警に出頭し逮捕された。容疑は、田岡邸を警備したとき、田岡邸に備えられた警備用の38口径拳銃を所持していたことだった。田岡邸の警備当番は、直系組長2人が1班となって、交代で当たっていた。また、大阪戦争の最中から、田岡邸に備えられた警備用の38口径拳銃を携帯することになっていた。大阪府警捜査四課は、細田利明に「細田利明が一人で責任を取り、拳銃を提出するならば、他に警備した直系組長の罪は問わない」と、妥協案を示した。細田利明は妥協案を了承し、大阪府警捜査四課と「妥協案を反故にするならば、引退する」と約束した。細田利明は、細田組組員を大阪府警に呼び、田岡邸に備えられた警備用の38口径拳銃を警察に提出するように求めた。細田組組員は竹中正久に相談したが、竹中正久は拳銃提出を拒絶した。
同年7月16日、細田利明は、大阪府警が用意した「解散届」に署名・捺印した。
同年7月18日、細田利明は、細田組を解散し、ヤクザから引退した。
同年7月19日、細田利明は、処分保留で釈放された。
同年7月23日、田岡邸の横の空き地で、田岡一雄の3回忌法要が営まれた。祭主は、山本広。法要執行委員長は、竹中正久。
同年8月1日、竹中正久は、昭和57年(1982年)12月に竹中組組員が小西一家本部事務所を銃撃した責任をとって、謹慎を申し出た。
同年9月1日、加古川市の信原組・信原勇組長が、兵庫県警に、信原組の解散届けを提出し、ヤクザから引退した。
同年9月15日、神戸市の森本組・森本忠光組長が、森本組を解散し、ヤクザから引退した。
同年10月20日、白神組(組長は白神英雄)若頭・上村進と会津小鉄会・三神忠副幹事長が五分の兄弟盃を交わした。
同年11月、中村憲逸が、神戸市の中村組を解散して、ヤクザから引退した。
同年11月15日、加茂田重政が、賭博容疑で、大分県警に逮捕された。
同年11月30日、神戸市の西岡組・西岡勇組長が、ヤクザから引退した。
同年12月5日、浅野二郎と近松組・近松博好組長の直系組長になった。
昭和59年(1984年)1月10日、田岡文子が神戸市熊内町のマンションで階段から落ち、左足を骨折し、関西労災病院に入院した。
同年2月、大阪の「ロイヤルホテル」(後のリーガロイヤルホテル)で、竹中正久は、三代目旭琉会(会長は翁長良宏)・富永清理事長、山口組大平組上原組・上原秀吉組長と会い、旭琉会との意見調整を行なった。上原組の沖縄存続が決まった。
同年3月5日、姫路市の吉岡組・吉岡武延組長がヤクザから引退した。
同年6月5日午後3時、山口組直系組長会で、竹中正久は、山口組四代目組長就任の挨拶をした。山本広を支持する直系組長は、直系組長会に出席しなかった。出席したのは直系組長96人中46人と、田岡一雄の舎弟2人だった[7]。
同日、大阪市東区の松美会(会長は松本勝美)事務所で、山本広、加茂田重政、佐々木組・佐々木道雄組長、溝橋正夫、北山組・北山悟組長、松本勝美、小田秀臣ら約20人が、在阪のマスコミ各社を呼んで、記者会見を開き、竹中正久の山口組四代目就任に反対した。
同年6月6日、竹中正久の山口組四代目就任に反対する山口組直系組長は、山口組の山菱の代紋を、組事務所から外した。この段階で、山口組参加者は直系組長42人で総組員数4690人、一和会参加者は直系組長34人で総組員数6021人だった。
同年6月8日、兵庫県警と姫路警察署は、竹中事務所への家宅捜索を行なった。容疑は、昭和57年(1982年)7月の竹中組と小西一家との喧嘩の際に使用された拳銃が竹中組事務所に隠されていることと、昭和57年(1982年)8月に竹中組組員がサイコロ賭博に加わったというものだった。
同年6月13日、山本広、加茂田重政、佐々木道雄らは、山本広を会長に据えて、「一和会」を結成した。加茂田重政は、副会長兼理事長に就任した。加茂田重政は、弟の神竜会・加茂田俊治会長を、一和会理事長補佐に据え、弟の政勇会・加茂田勲武会長を、一和会常任理事に据えた。
山口組福井組・福井英夫組長は、山口組宅見組・宅見勝組長に説得されて、一和会参加を取り止めて、ヤクザから引退した。小田秀臣も一和会には参加せず、ヤクザから引退した。名古屋市の弘田組・弘田武組長も、一和会には参加せずにヤクザから引退した。弘田組若頭・司忍(後の六代目山口組組長)が、弘田組を引き継いだ。山口組黒澤組・黒澤 明組長は、ヤクザから引退し、黒澤組を解散させた。美尾組・美尾尚利組長と黒誠会・前田和男会長が、黒澤組を引き継いだ。竹中正久は、美尾尚利と前田和男に盃を与え、山口組直参とした[8]。
同年6月21日、田岡邸大広間で、竹中正久は、23人の舎弟、46人の若中と、固めの盃を執り行なった。
同年6月23日、竹中正久は、若頭に中山勝正、舎弟頭に中西一男、筆頭若頭補佐兼本部長に岸本組・岸本才三組長を据えた。竹中正久は、渡辺芳則、宅見勝、嘉陽組・嘉陽宗輝組長、一心会・桂木正夫会長、角定一家・木村茂夫総長を若頭補佐に据えた。竹中正久は、竹中武を竹中組組長、竹中正を竹中組相談役に就けた。竹中武は直系若衆になった。
同年6月、竹中正久は、司忍、英組・英五郎組長(後の六代目山口組舎弟)、芳菱会・瀧澤孝会長(後の六代目山口組若頭補佐)、国領屋一力一家・青野哲也総長、小西一家四代目早野会・田井力造会長、小西一家地蔵組・地蔵吉一組長に盃を与え、山口組直参にした[9]。
同年7月10日、徳島県鳴門市の「観光ホテル鳴門」で、山口組襲名式が執り行なわれた。後見人は稲川聖城。取持人は諏訪一家・諏訪健治総長。推薦人は住吉連合会(後の住吉会)・堀政夫会長、会津小鉄会(後の会津小鉄)・図越利一会長、大野一家・大野鶴吉総長、今西組・辻野嘉兵衛組長、松浦組・松浦繁明組長、大日本平和会・平田勝市会長、森会・平井龍夫会長、草野一家・草野高明総長。見届け人は翁長良宏。媒酌人は大野一家義信会・津村和磨会長。霊代は、田岡文子。竹中正久は、四代目山口組襲名相続式典の祝儀全部を、田岡文子に渡し、田岡文子はその三分の一だけを受け取った。
同年7月、竹中正久は、森田組・森田昌夫組長に盃を与え、山口組直参とした[10]。
同年7月、竹中正久は、後藤組・後藤忠政組長(後の六代目山口組舎弟)に盃を与え、山口組直参とした[11]。
詳細は「山一抗争」を参照
昭和60年(1985年)1月26日午後9時過ぎ、竹中正久、中山勝正、山口組南組・南力組長は、大阪府吹田市のマンション「GSハイム第二江坂」の1階エレベーター前で、二代目山広組若頭・後藤栄治に指揮された二代目山広組組員・田辺豊記、山広組組員・長尾直美、山広組組員・立花和夫に銃撃された。南力はほぼ即死。中山勝正も4時間後に死亡した。竹中正久は銃弾3発を受けたが、自力で自分の車に乗り込み、竹中正久の運転手は南組事務所に向かいながら、無線で救急車の手配を急がせた。竹中正久は、南組事務所から、大阪警察病院(後の大阪けいさつ病院)に搬送された。
同年1月27日午後11時25分、竹中正久は死亡した。
[編集] 人物・エピソード
- 特高警察に拷問された次兄・良男が早逝した経験から、反権力の姿勢を生涯貫いた。
- 「裁判で無罪を勝ち取ろうと思ったら、左翼の弁護士に頼まなければいけない」と語っていた。
- 入れ墨はせず、断指をしたことがなかった。
- 昭和28年(1953年)ごろの愚連隊時代、常に匕首を携帯していた。竹中正は、常にズボンの右後ろポケットに登山ナイフを入れていた。竹中英男は、常に拳銃を携帯していた。
- 昭和57年(1982年)3月時点の竹中組の構成は次の通り。組長は竹中正久。副組長は竹中武と竹中正。舎弟は安田一郎、別所正昭、坂本義一、佐藤邦彦(後の五代目山口組若中)。若頭は杉本明政。若頭補佐は笹部静夫、松浦敏夫、後藤明義、吉村義則、萩原公明。直系若衆は40人。総組員は約200人。
- 大規模な野球賭博を主な収入源としていた[12]。
[編集] 脚注
- ^ 当初、竹中武は短期間滞在するつもりでいた
- ^ 田岡一雄は、全国港湾荷役振興協会副会長兼神戸支部長だった
- ^ 事件の経緯は以下の通り。
昭和46年(1971年)、竹中組組員・瀬古武志は、白龍会藤沢組若頭・長谷川智一の野球賭博の客になり、160万円を勝った。
瀬古武志は、長谷川智一が留守だったため、藤沢組組長らと交渉して、80万円を受け取った。
同年7月、瀬古武志は、姫路市に戻ってきた長谷川智一に、勝ち金の残り80万円を要求したが、長谷川智一は支払いを渋った。
瀬古武志は、竹中組事務所近くに長谷川智一を呼び出し、刺身包丁で刺殺した - ^ 田岡一雄と山口組若頭は、上納金(山口組会費)を免除されていた
- ^ 絶縁状の差出人は、「田岡一雄」ではなく「三代目山口組幹部一同」となっていた。しかし、田岡一雄は、山本健一から菅谷組による川内弘射殺を聞き、山本健一に絶縁を示唆していた
- ^ 出典は、土井泰昭、春日まんぼう『実録 剛胆ヤクザ伝 竹中組組長 竹中武』竹書房、2008年、ISBN 978-4-8124-6905-7のP.97
- ^ 出典は、飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6のP.78
- ^ 出典は、『山口組 50の謎を追う』洋泉社、2004年、ISBN 4-89691-796-0のP.46
- ^ 出典は、『六代目山口組 完全データBOOK』メディアックス、2008年、ISBN 978-4-86201-328-6のP.4とP.37とP.10
- ^ 出典は、『六代目山口組 完全データBOOK』メディアックス、2008年、ISBN 978-4-86201-328-6のP.41
- ^ 出典は、『六代目山口組 完全データBOOK』メディアックス、2008年、ISBN 978-4-86201-328-6のP.4
- ^ 出典は、飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6のP.69
[編集] 竹中正久関連の書籍
- 溝口敦『荒らぶる獅子 山口組四代目竹中正久の生涯』徳間書店、1988年、ISBN 4-19-123603-2
- 溝口敦、笠井和弘、ももなり高『実録山口組四代目・竹中正久 荒らぶる獅子 第1巻』竹書房、2001年、ISBN 4-8124-5485-9
- 溝口敦、笠井和弘、ももなり高『実録山口組四代目・竹中正久 荒らぶる獅子 第2巻』竹書房、2001年、ISBN 4-8124-5566-9
- 溝口敦、笠井和弘、ももなり高『実録山口組四代目・竹中正久 荒らぶる獅子 第3巻』竹書房、2002年、ISBN 4-8124-5693-2
- 溝口敦、笠井和弘、ももなり高『実録山口組四代目・竹中正久 荒らぶる獅子 第4巻』竹書房、2003年、ISBN 4-8124-5811-0
- 溝口敦、笠井和弘、ももなり高『実録山口組四代目・竹中正久 荒らぶる獅子 第5巻』竹書房、2004年、ISBN 4-8124-5905-2
- 溝口敦、笠井和弘、ももなり高『実録山口組四代目・竹中正久 荒らぶる獅子 第6巻』竹書房、2005年、ISBN 4-8124-6086-7
- 溝口敦、笠井和弘、ももなり高『実録山口組四代目・竹中正久 荒らぶる獅子 第7巻』竹書房、2005年、ISBN 4-8124-6244-X
- 溝口敦、笠井和弘、ももなり高『実録山口組四代目・竹中正久 荒らぶる獅子 第8巻』竹書房、2007年、ISBN 978-4-8124-6555-4
- 溝口敦、笠井和弘、ももなり高『実録山口組四代目・竹中正久 荒らぶる獅子 第9巻』竹書房、2007年、ISBN 978-4-8124-6737-4
- 溝口敦、笠井和弘、ももなり高『実録山口組四代目・竹中正久 荒らぶる獅子 第10巻』竹書房、2008年、ISBN 978-4-8124-6845-6
[編集] 竹中正久関連の映画・オリジナルビデオ
- 中島貞夫監督『激動の1750日』(1990年、東映)、時津忠久のモデルは、竹中正久。時津忠久役は萩原健一
- 『実録・竹中正久の生涯 荒らぶる獅子 前編』(2002年、GPミュージアムソフト)、主人公・竹中正久役は小沢仁志
- 『実録・竹中正久の生涯 荒らぶる獅子 後篇』(2003年、GPミュージアムソフト)、主人公・竹中正久役は小沢仁志
- 『実録・竹中正久の生涯 荒らぶる獅子 外伝』(2004年、GPミュージアムソフト)、主人公・竹中正久役は小沢仁志
- 『実録 史上最大の抗争 四代目継承』(2002年、GPミュージアムソフト)、武田力也のモデルは、竹中正久。武田力也役は、清水健太郎
- 『実録・大阪やくざ戦争 報復』(2002年、GPミュージアムソフト)、武田力也のモデルは、竹中正久。武田力也役は大和武士
[編集] 参考文献
- 溝口敦『荒らぶる獅子 山口組四代目竹中正久の生涯』徳間書店、1988年、ISBN 4-19-123603-2
- 溝口敦『撃滅 山口組vs一和会』講談社<講談社+α文庫>、2000年、ISBN 4-06-256445-9
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