奥村吉兵衛

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奥村 吉兵衛(おくむら きちべえ)は千家十職の1人。三千家御用達の表具師として、家元らの揮毫の軸装(掛け軸に仕立てること)や風炉先屏風の敷物の一種である「紙釜敷」の製作などを行う。

当代は12代。

歴史[編集]

奥村家は佐々木氏の末裔を称し、近江国北部の「谷の庄」なるところの郷士であったとされる。奥村三郎定道の代、姉川の戦いの後、主家浅井氏が滅亡して浪人となる。定道の息子・奥村源六郎定次は長男・源子郎を前田利家に仕官させ、長男は後に「奥村摂津守定光」を名乗り加賀藩士となる。次男・吉右衛門清定は仕官せず、母方の家業を継いで商人となりにて表具屋となる。この清定が初代とされる。

2代・吉兵衛表千家6代・覚々斎の取りなしにより紀州徳川家御用達となり、家運興隆の基礎を作る。その後数代に渡り男子が夭折し跡取りに恵まれず、代々婿養子を郷里の北近江より迎える事態となる。その中の1人、6代・吉兵衛は奥村家の功績をまとめるために調査を重ね、家系図はもちろん、歴代の表具作成の記録などを文書化する。

8代・吉兵衛は歴代の中でも最も名手といわれる一方、国学儒学に通じ、尊皇攘夷派の学者や志士と深く交わりを持った人物である。しかし、皮肉にも明治維新後の文明開化により茶道が衰退、奥村家は大ダメージを受ける。9代・吉兵衛はこの困難な時代に名跡を継ぎ、奥村家の建て直しに成功、現在に至る。

系譜[編集]

諱「清定」、出家後法名「宗勢」。正保3年(1646年)に上洛、武士から商人に転業。承応3年に表具屋業を開業、屋号「近江屋吉兵衛」を名乗る。妻は売茶翁の友人で能書家として知られた亀田窮楽の伯母。現在も奥村家の玄関にかかる「表具師」ののれんの揮毫はこの窮楽の筆による物とされる。
号「休意」。初代の長男。元禄11年(1698年)、表千家6代・覚々斎の取りなしで紀州徳川家御用達、また表千家御用達となる。
  • 吉九郎 二代吉兵衛の長男。25歳にて早世。
出家後法号「休誠」。近江国浅井郡馬渡村の松山家の出身。二代・吉兵衛の婿養子。狂歌の作者、能書家として知られる。
近江国伊香郡高月村の田辺家出身。三代・吉兵衛の婿養子。法名「道順」。
出家後法号「了誠」。近江国伊香郡高月村の松井家出身。三代・吉兵衛の婿養子。天明8年(1788年)の天明の大火に遭遇、家伝などの一切を消失。三千家合作の三幅対として有名な土佐光孚筆の絵のうち、表千家・了々斎(宝珠)、裏千家・認得斎(小槌)の2作の賛を得て、表装を行う。
号「休栄」。近江国伊香郡高月村の宮部家の出身、四代・吉五郎の婿養子。史料編纂に興味を持ち、天明の大火で失った家伝の再編纂を決意、「奥村家系図」、「千家御好表具并諸色寸法控」乾巻・坤巻を著し、茶道具の様式や、茶会のルールなど、貴重な資料を後世に伝える功績を残す。
号「休音」。六代・吉兵衛の婿養子。義父に先立って死去。
号「檉所[1]」、「鶴心堂」。歴代中最も「表具の達人」と言われる。当人は学問の方に興味があり、後に彦根藩家老となった岡本黄石を師として儒学を学び、その紹介により梁川星巌紅蘭夫妻と親交を結ぶ。後に出家し「蒿庵」と号する。
名「義道」。八代・吉兵衛の長男。小川町上立売(現京都市上京区)から、現在奥村家のある釜座通夷川(現京都市中京区)へ転居。明治15年(1882年)に、「三千家合作の三幅対」のうち未完であった「天秤計り」に武者小路千家・一指斎の賛を頂戴し、発起より60年後に完成させる。
  • 十代 吉次郎(明治2年(1869年)5月~昭和19年(1944年)9月)
九代・吉兵衛の長男。
  • 十一代 吉兵衛(明治34年(1901年)~)
十代・吉次郎の長男。
  • 十二代 吉兵衛
十一代・吉兵衛の子息。当代。

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ ていしょ。ていは「木聖」、木偏に「聖」。