大淀三千風

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大淀三千風像 村井古道

大淀 三千風(おおよど みちかぜ、寛永16年(1639年)- 宝永4年1月8日1707年2月10日))は、江戸時代俳人伊勢国飯野郡射和村(現・三重県松阪市)生まれ。本名、三井友翰。別号、無不非軒・紫冥軒・寓言堂・尺鷃堂・梅睡庵・呑空法師・東往居士・湖山飛散人など。

来歴[編集]

寛永16年(1639年)、伊勢国飯野郡射和村の商家に生まれる[1]。幼少期は射和村蓮生寺の祐順法印について学び、15歳の春から俳諧に親しむ[1]。俳人を志すが、両親が亡くなったため、家業に従事せざるを得なかった。寛文9年(1669年)秋、31歳にして松島に赴いた後、仙台に15年間居住する[1]延宝7年(1679年)、矢数俳諧に挑戦し、一夜独吟3000句を成功させる[1]。この独吟は井原西鶴に託され、『仙台大矢数』として刊行される[1]。これ以降、三千風と名乗る[1]天和2年(1682年)、松島に関する詩歌俳を集めて『松島眺望集』を刊行[1]。翌年には7年間にも及ぶ全国行脚へ出発、元禄3年(1690年)夏、旅中の句文をもとに『日本行脚文集』を編む[1]。元禄9年(1693年)頃、大磯に鴫立庵を結び、西行五百回忌にあわせて、西行堂の建立や謡曲『鴫立沢』の刊行を行う[1]。元禄14年(1698年)、鴫にちなんだ詩歌俳を集めた『和漢田鳥集』を刊行[1]。宝永4年1月8日(1707年2月10日)、射和村にて没[1]。享年69歳[1]。墓所は射和共同墓地(松阪市指定史跡)。

三千風の勢力は大きくはなかったが、九州の俳壇の一大勢力であった。「偏見は道の癖なりと思ひ、よく他派に融通し、千変万化の変化を得べし」(『日本行脚文集』)と語るような柔軟な人柄も相まって、伊藤不玉井原西鶴神戸友琴菅野谷高政富尾似船北条団水祐天上人など多くの知友を得た[2]

作風[編集]

三千風は特定の師につかなかったが、「所専、俳諧は狂言なり、寓言也。実書不用にして、戯が中の虚也」(『日本行脚文集』)という言葉から、談林派の俳人と見なされる[2]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l 岡本勝「大淀三千風略伝」『近世文藝』第14巻、日本近世文学会、1968年、15-25頁、doi:10.20815/kinseibungei.14.0_15 
  2. ^ a b 日本古典文学大辞典編集委員会『日本古典文学大辞典第1巻』岩波書店、1983年10月、497-498頁。