名和教長

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名和 教長(なわ のりなが、応永23年(1416年) - 宝徳4年5月21日1452年6月8日))は、室町時代の武将。名和氏の第17代当主。父は名和顕真(あきざね)[1]。長弟に名和七郎、二弟は某、三妹に某(のち阿蘇惟忠室)、四弟に名和三郎がいるがいずれも実名は解っていない。子に名和義興名和顕忠がいる。

生涯[編集]

前半生の経歴は不明であるが、生年が判明していることから、年代的なことを考慮しても、元服時に当時の将軍足利義教から偏諱(「教」の字)を与えられて教長と名乗ったことは確実と言えよう。

文安5年(1448年)の相良氏における文安の内訌の影響で領内が「大乱以ての外」という状態だったのを見事に鎮圧したばかりか、「所々外城悉治世候」という働きを見せる。また阿蘇氏と合力して相良前続とに合縁を結んでいる。

しかし、いかなる理由か教長兄弟は不仲で、教長は先ず、長弟の七郎を周防国麻の宿で古海某という者に命じて弑せしめた。すると、これを遺憾に思った末弟の三郎から宝徳4年(1452年)5月21日夜、「御陣内乱舞之座」において襲われ落命する。享年37。

教長亡き後、家督は幼年の長子・桃房丸改め義興が継ぐが長禄3年(1459年)に近習によって弑逆され、次子の幸松丸(のち顕忠)は一旦相良氏を頼った後に名和氏の家督を継承している。

参考文献[編集]

  • 新宇土市史編纂委員会『新宇土市史 資料編第三巻 古代・中世・近世』2004

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 相良氏との合縁(本項文中参照)により嫡子とあるから、顕真の子であった事は間違いない。