南嶋間作

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南嶋 間作(みなみじま まさく、1863年7月31日(文久3年9月13日[1])- 1899年明治32年)2月9日[1][注釈 1])は、明治期の実業家政治家衆議院議員

経歴[編集]

越中国射水郡新湊放生津町[1]石川県射水郡新湊放生津町、富山県[2]射水郡新湊放生津町、新湊町[3]新湊市[1]を経て現射水市放生津町)で、徳三の長男として生まれた[1]岡田呉陽に漢学を学んだ[1]。高岡(現高岡市)の商家で奉公し[1]、その後、大阪・渋谷塾で数学を学び[1]、東京・豊国校で簿記学を慶應義塾で政治学・経済学を学んだ[1]。1886年(明治19年)父の病のため帰郷した[1]

新湊町立卓立小学校長、同廉貞小学校長に就任[1]。1888年(明治21年)四日曽根小学校長、荒屋小学校長を兼務[1]。1889年(明治22年)小学校長を辞職し[1]上海で海運事情を視察して帰国した[1]。ドイツ汽船チャイナ号を購入し奈古浦丸(なごうらまる)に改名し、伏木港で南島商行を設立し回船業を営む[1]。1893年(明治26年)新湊汽船を創立し、日清戦争では奈古浦丸が日本軍の御用船となる[1]。その他、新湊水産合資会社代表社員、伏木米穀外三品取引所理事、開拓委托監査役、日本海上保険取締役なども務めた[2][3]

政界では、奨学委員、新湊町会議員、区会議員を務めた[2][3]。1894年(明治27年)9月、第4回衆議院議員総選挙(富山県第3区、無所属)で当選し[1][4]、衆議院議員に1期在任した[2][3]

1895年(明治28年)志賀浦丸、有磯浦丸を購入し[1]、個人所有船として日本初の中国との定期航路を始め[1]、さらに朝鮮半島沿海州との交易に乗り出したが[1]、1899年2月に病のため死去した[1]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』627頁では2月13日。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 『富山大百科事典 下巻』920頁。
  2. ^ a b c d 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』627頁。
  3. ^ a b c d 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』439頁。
  4. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』100頁。同書では「南島簡作」と表記。

参考文献[編集]

  • 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
  • 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『富山大百科事典 下巻』北日本新聞社、1994年。