加藤瀧二

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加藤 瀧二(滝二、かとう たきじ、1898年明治31年〉1月1日[1][2][3][4][5] - 1984年昭和59年〉3月22日[4][5])は、昭和時代の政治家官吏埼玉県川越市長。

経歴[編集]

加藤甚左エ門の長男として[1][2]福井県大野郡下庄村(下庄町を経て、現大野市)に生まれる[4]。1926年(大正15年)日本大学法文学部政治学科を卒業し、同年高等試験(行政科[3])に合格する[4]。1927年(昭和2年)官界に入り[4]資源局企画課、拓務省文書課勤務、資源局統計官、総務企画部、資源局企画院総務部属を経て、1940年(昭和15年)8月に和歌山県経済部長となり、群馬県経済部長、富山県内務部長を歴任した[3]。1947年(昭和22年)富山県知事選挙に立候補するも落選し、官界を退き川越へ移住する[4]。1965年(昭和40年)川越市長選挙に5度目の挑戦で当選し、同年9月に就任した[4]

市長在任中、市民のための教育、文化および福祉施設の充実が進められ、川越市婦人会館の開設、老人会館(現東後楽会館)の完成、市営母子寮の開設、川越武道館の開館、川越市山の家の完成、さらに、1974年(昭和49年)5月には身障者モデル地区の指定を受けて、1976年(昭和51年)には市立みよしの授産学園が開設された[3]。また、2年続きの財政赤字を解消し、小学校プール中学校体育館を全校設置し、市立保育園を増設した[4]。ほか、埼玉県市長会理事を務めた[1][2]。4期目の任期途中の1981年(昭和56年)1月、病気療養のため辞任した[4]

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • 人事興信所 編『人事興信録 第24版 上』人事興信所、1968年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3044857 
  • 人事興信所 編『人事興信録 第30版 上』人事興信所、1979年。 
  • 歴代知事編纂会 編集『日本の歴代市長 : 市制施行百年の歩み 第1巻』歴代知事編纂会、1983年。 
  • 『埼玉人物事典』埼玉県、1998年。 
  • 日外アソシエーツ 編集『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年。ISBN 4816929304