前野定時

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前野定時 / 坪内定時
時代 室町時代 / 戦国時代 / 安土桃山時代
生誕 不詳
死没 文禄2年(1593年
改名 坪内定時(実名)→前野定時
別名 通称:小平太→長左衛門、実名:坪内定時
主君 豊臣秀吉前野長康豊臣秀次
氏族 藤原利仁富樫氏坪内氏(後に母の生家・前野家に仕えて前野姓を称す)
父母 父:坪内勝定、母:前野長義[注釈 1]
兄弟前野長康[1]または長康室[2])、坪内利定澄定定時坪内半兵衛室、守定武山善兵衛
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前野 定時(まえの さだとき)は、室町時代から戦国時代 / 安土桃山時代にかけての武将。実名は坪内定時[3]。通称は小平太のち長左衛門[3]


人物[編集]

定時は、尾張国葉栗郡松倉城坪内勝定の子に生まれる[3]。初め坪内小平太定時を名乗る[3]坪内衆の一人として木下秀吉に協力し、後に母の生家・前野家に仕え、前野小平太定時を称す[3]。当時の前野家の当主は前野長康である。この長康は、『寛政重修諸家譜』によると定時の兄であり、坪内勝定の嫡男とある[1]が、前野家古文書『武功夜話』には前野宗康(舜秀)の次男[2]とある。この宗康は、定時の母の兄であり、もし長康が宗康の子であるとすれば、長康は定時の従兄弟ということになる[2]。この長康に仕えるまでは、豊臣家豊臣秀次に仕えて、前野長左衛門定時と改名する[3]。後に文禄の役が起こると、長康の軍に属して自らも出陣したが討ち死にした[3]

氏族[編集]

定時の本姓藤原である[3]藤原利仁の末裔である富樫氏富樫頼定坪内以有の婿養子となって家督を継ぎ、坪内を称したのが藤原利仁富樫氏坪内氏の始まりである[3]。また、定時の母の生家である前野家は、桓武天皇皇子大納言良岑安世の子孫・良岑高成の子・高長が尾張国丹羽郡前野村(現在の愛知県江南市前野町周辺の大口町などの一部)に移り住んで前野高長を称したのが始まりとされるが、高長の曾孫・前野時綱を初代とする資料もある[2]

系譜[編集]

脚注[編集]

注釈

  1. ^ 定時の母は坪内昌家の娘であるとする資料もある

出典

  1. ^ a b 『寛政重修諸家譜』
  2. ^ a b c d 前野家古文書『武功夜話』
  3. ^ a b c d e f g h i 『蜂須賀家家臣成立書并系図』徳島大学附属図書館蔵