何実

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何 実(か じつ、? - 1257年)は、モンゴル帝国に仕えた漢人将軍の一人である。字は誠卿。

概要[編集]

何実は代々北京(大定府)に居住してきた一族の出で、曾祖父の何摶霄は好んで施しを行う善人として知られていた。祖父は何鼎敬。父の何道忠は金朝に仕えて北京留守に任じられたが、早くに亡くなったために息子の何実は叔父に育てられることになった[1]。何実は幼い頃から非凡なことで知られ、成長すると諸外国語を学び騎射をよくしたため、近隣の民は皆何実に畏服していたという[2]

1215年乙亥)、モンゴルの金朝遠征に伴って治安の悪化した遼西地方では錦州の張鯨なる人物が自立して臨海郡王を称し、一度はモンゴルに降ったが後に反して殺された。張鯨の弟の張致は兄とともにモンゴルに反旗を翻すに当たって何実を誘ったが、何実はこれを拒絶した。1216年丙子)春に何実は遂にムカリ率いるモンゴルに降り、ムカリに多くの献策を行ったために高く評価されたという。 後にはその功績が認められてチンギス・カンに謁見し、鞘剣を下賜された何実はムカリ軍の先鋒に抜擢された[3]

一方、張致は兄の張鯨の死後も錦州でモンゴルに抵抗を続けており、何実は神水県で激戦の末張致軍を破り300人余りを殺して多くの戦馬・兵・武具を獲得する功績を挙げた。これを受けてムカリは鞍馬弓矢を下賜して功績に報い、帳前軍馬都弾圧の地位を授けた。年にムカリが大師国王と称すると山東地方の経略に従い、何実は4千の兵をひきいて燕南斉西の地に進出し、邢州をはじめ曹州・濮州・恩州・徳州・泰安州・済寧州などの平定に功績をあげた。濰州を過ぎた後にムカリ軍本隊と合流し、功績により兵馬都鎮撫の地位を授けられた。その後、今度は山西地方北部の一帯の大同・雁門・石州・隰州平定に従事した後、南下して山西地方中部の太原・平陽・河中・京兆諸城も平定し、功績により元帥左監軍とされた[4]

1223年癸未)にムカリが亡くなるとその息子のボオルに引き続き仕え、一度モンゴルに降った武仙が叛乱を起こすと、5千の兵を率いて武仙の拠る邢州を包囲した。何実は雲梯を用いて城壁を登り、城の陥落後は逃れた武仙を追撃して北40里の所で斬首200級を数える勝利を得た。その夜に武仙は遂にモンゴル軍の追撃を逃れたものの、何実は捕虜の虐待を厳しく禁じたため士民は安堵したという。ボオルは何実に陥落したばかりの邢州に駐屯するよう命じ、何実は善政を敷いたことによって神明の如しと敬われたという。1224年甲申)、ボオルの征西に従って開封府・陳州・蔡州・唐州・鄧州・許州・鈞州・睢州・鄭州・亳州・潁州などの諸城を攻めて功績があった。打ち取った首は1500を数え、工匠700人余りを捕虜とした。その後ボオルは再び邢州に駐屯するよう命じている[5]

1227年丁亥)には金虎符を下賜され、便宜行元帥府事の地位を授けられた。邢州は武仙の乱によって荒廃し飢餓が発生していたため、何実は匠局を博州に移すよう請願し、ボオルはこれに従っている。ボオルは連年何実が出征していることを労り、出征を控えさせた。1235年乙未)にはボオルは何実の息子の何仲沢を質子(トルカク)とした[6]

1237年丁酉)、オゴデイに召還された何実は金幣紋綺三篚を貢した。この時、陵州で賊に遭うと弓矢を用いて20人余りを殺し、10人余りを生け捕りにした。その後、オゴデイは何実を征行元帥にしようとしたが、何実は20年にわたる征戦によって幾多の傷を負い、右腕は挙がらないため自分は廃人同然であるとしてこれを固辞し、願わくば工匠の督治で余生を送りたいと願い出た。大抜擢を固辞されたオゴデイはこれを喜ばなかったが、何実を親衛隊(ケシク)に入れて様子を窺わせたところ何実が語った負傷は事実であったため、改めて何実の要望通り御用局人ダルガチの地位を授けた。更に、白貂帽・減鉄繋腰・貂衣1襲・弓1・矢100を賜って故郷に帰らせた。その後1257年丁巳)に亡くなった[7]

息子は9人、孫は17人いたと知られている。息子の何崇礼は応奉翰林文字・従仕郎・同知制誥兼国史院編修官の地位を授かっている[8]

脚注[編集]

  1. ^ 『元史』巻150列伝37何実伝,「何実字誠卿、其先北京人。曾祖摶霄、雄於貲、好施与、郷里以善人称。祖鼎敬。父道忠、仕金、為北京留守」
  2. ^ 『元史』巻150列伝37何実伝,「実少孤、依叔父居、気節不凡、家人常入臥内、見一青蛇蜿蜒衣被中、駭而視之、乃実也。及長、通諸国訳語、驍勇善騎射、倜儻不羈、遠近之民、慕其雄略、咸帰心焉」
  3. ^ 『元史』巻150列伝37何実伝,「歳乙亥、中原盗起。錦州張鯨、自立為臨海郡王、遣使納款于太祖、尋以叛伏誅。鯨弟致、初以叛謀於実、実厲声叱曰『天之暦数在朔方、汝等恣為不軌、徒自斃耳』。乃籍戸口一万、募兵三千、丙子春、来帰。大将木華黎与論兵事、奇変百出、拊髀欣躍、大加称賞、遂引見太祖、献軍民之数。帝大悦、賜鞘剣一、命従木華黎選充前鋒」
  4. ^ 『元史』巻150列伝37何実伝,「時張致復拠錦州、実与賊遇於神水県、挺身陥陣、殊死戦、殺三百餘人、獲戦馬兵械甚衆、木華黎奏賜鞍馬弓矢以励之。以功、為帳前軍馬都弾圧。詔封木華黎太師・国王、東下斉数郡。使実帥師四千、取燕南・斉西之地、首撃邢州、徇趙郡、取魏鄴、下博関、襲曹・濮・恩・徳・泰安・済寧、勢如破竹。薄濰州、与木華黎会。遷兵馬都鎮撫、従取大同・雁門・石・隰等州、悉平之。引兵掠太原・平陽・河中・京兆諸城、所向款附。木華黎録其功、表実為元帥左監軍」
  5. ^ 『元史』巻150列伝37何実伝,「癸未、木華黎卒、子孛魯嗣。武仙復叛、拠邢。実帥師五千囲之、立雲梯、先士卒登堞、横矟突之、城破、武仙走、逐北四十里、大破之、斬首二百餘級、是夜、仙党遁去。実下令、敢有擅剽掠者斬、軍中粛然、士民按堵。孛魯命戍于邢、多著善政、邢民敬之如神明。甲申、孛魯征西夏、以実分兵攻汴・陳・蔡・唐・鄧・許・鈞・睢・鄭・亳・潁、所至有功、計梟首一千五百餘級、俘工匠七百餘人。孛魯復命駐兵邢州、分織匠五百戸、置局課織」
  6. ^ 『元史』巻150列伝37何実伝,「丁亥、賜金虎符、便宜行元帥府事、邢因武仙之乱、歳屡饑、請移匠局于博、孛魯従之。憫其労瘁、使勿出征、更檄東平厳実、与之分治軍民事。博値兵火後、物貨不通、実以絲数印置会子、権行一方、民獲貿遷之利。庚寅、有旨收諸将金符。乙未、孛魯以実子仲沢為質子」
  7. ^ 『元史』巻150列伝37何実伝,「丁酉、太宗数召入見、実貢金幣紋綺三篚。次陵州、遇寇、実与左右射之、斃二十餘人、生獲十餘人。朝于幄殿、帝歓甚、問遇盗之故、命所獲寇勿殺、仍以賜実。是日、賜坐、与論軍中故事、良久、曰『思卿効力有年、朕欲授以征行元帥、後当重任』。実叩頭謝曰『小臣被堅執鋭、従事鋒鏑二十餘年、身被十餘槍、右臂不能挙、已為廃人矣。臣不敢辱命。願辞監軍之職、幸得元佩金符、督治工匠、歳献織幣、優游以終其身、於臣足矣』。帝黙然不悦、令射以観其強弱、実不能射。命入宿衛、密使人覘之、実臂果不能挙。固辞十餘、始可其奏。遂錫宴、取金符親賜之、授以漢字宣命、充御用局人匠達魯花赤、子孫世其爵。更賜白貂帽・減鉄繋腰・貂衣一襲・弓一・矢百、遣帰。丁巳、卒于博」
  8. ^ 『元史』巻150列伝37何実伝,「子九人、孫十七人。子崇礼、授応奉翰林文字・従仕郎・同知制誥兼国史院編修官」

参考文献[編集]