佐久市営岩村田球場

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
佐久市営岩村田球場
1955年、米軍撮影
(当時:浅間町営岩村田球場)
施設データ
所在地 長野県佐久市岩村田2641-2
座標 北緯36度16分02秒 東経138度28分59秒 / 北緯36.26722度 東経138.48306度 / 36.26722; 138.48306座標: 北緯36度16分02秒 東経138度28分59秒 / 北緯36.26722度 東経138.48306度 / 36.26722; 138.48306
起工 1948年(昭和23年)
開場 1954年(昭和29年)
所有者 佐久市
グラウンド 外野 - 天然芝
内野 - 土
照明 なし
収容人員
10,000人(内野スタンド)
グラウンドデータ
球場規模 両翼 - 91.4m
中堅 - 131.1m

佐久市営岩村田球場(さくしえいいわむらだきゅうじょう)は、長野県佐久市岩村田にあった野球場

解説[編集]

1954年、当時の北佐久郡浅間町により「浅間町営岩村田球場」として完成。1961年には合併新設された佐久市の施設となり、浅間運動場の施設の一部として使用された。1970年に閉場となり、跡地は1972年に佐久市立岩村田小学校として利用されたが、旧球場施設の一部は同小学校で活用され、2019年に同小学校が全面改築されるまで使用された[1]

また、1956年と1957年には、日本野球機構(NPB)の一軍公式戦が合計5試合開催された。内訳は、パシフィック・リーグ大映ユニオンズおよびその前身の大映スターズの主催試合として3試合、セントラル・リーグ大洋ホエールズの主催試合として2試合である。2019年には日本野球機構の公式サイト内で同球場が取り上げられ、球場遺構が解体された直後の現地の様子、および同球場最後の公式戦でホームランを放った斎田忠利へのインタビューが掲載された[注 1][1]

歴史[編集]

  • 1948年(昭和23年) - 北佐久郡岩村田町内の同地における野球場建設計画が出される。
  • 1954年(昭和29年) -
    • 6月、岩村田町営となる新球場が開場。収容人数は1万人。
    • 12月20日、岩村田町が合併により浅間町となり、球場名が「浅間町営岩村田球場」となる。
  • 1956年(昭和31年) - 4月7日、NPBの一軍公式戦初開催。
  • 1957年(昭和32年) - 10月7日、同球場で最後となるNPBの一軍公式戦が開催。
  • 1961年(昭和36年) - 4月1日、浅間町が合併に加わって佐久市が成立。球場名が「佐久市営岩村田球場」になる。
  • 1970年(昭和45年) - 球場閉鎖。
  • 1972年(昭和47年) - 球場閉鎖後の跡地に佐久市立岩村田小学校が移転。球場の一部はバックネット裏スタンドが体育館のギャラリースタンド、バックスクリーンが校庭のバックボードなどとして利用。
  • 2019年(平成31年、令和元年) - 小学校校舎の全面改築に伴い、旧球場の遺稿は撤去。

プロ野球公式戦開催実績[編集]

4月7日 - (パ)大映スターズ毎日オリオンズ1回戦、毎日 4-2 大映。
9月15日 - (パ)大映スターズ対南海ホークス18回戦、大映 2x-1 南海(サヨナラゲーム)。
9月11日 - (セ)大洋ホエールズ広島カープ21回戦、大洋 7-6 広島(ダブルヘッダー第1試合)。
同日 - (セ)大洋ホエールズ対広島カープ22回戦、大洋 4-2 広島(ダブルヘッダー第2試合)。
10月7日 - (パ)大映ユニオンズ南海ホークス22回戦、南海 13-6 大映。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 斎田は大映の新人選手として1957年10月7日の南海戦に出場し、8回裏に3ランホームランを放った。後にパリーグ審判部長を務めた斎田は選手時代のこの試合について岩村田球場での開催という点を含めて記憶し、インタビューに答えている。また、同試合では9回表に南海の野村克也が満塁ホームランを打ち、同球場でのプロ野球一軍公式戦で最後にホームランを記録した選手となった。

出典[編集]

  1. ^ a b NPB公式記録員 山本勉: “【球跡巡り・第21回】名審判が放った珠玉の一打 浅間町営岩村田球場”. NPB公式サイト. 日本野球機構 (2019年8月30日). 2022年4月14日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]