伊東祐詮

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伊東 祐詮(いとう すけとし、元禄3年(1690年[1] - 享保15年7月21日1730年9月4日))は、江戸時代中期から後期の旗本寄合席は祐之、祐良、祐詮。幼名は長次郎。通称は采女、内膳。石高近江国栗太郡甲賀郡野洲郡滋賀郡のうち5000石。日向国飫肥藩主家伊東家分家にあたる祐豊系の旗本伊東家第3代目。

徳川綱吉小姓を勤める。

生涯[編集]

元禄16年(1703年)に徳川綱吉へ初御目見えを済ませる。宝永5年(1708年)に父の死を受けて、その跡を継ぎ、同年10月に父祖同様に江戸幕府小姓に就任する。翌宝永6年1月10日1709年2月19日)に徳川綱吉が死去すると、同年2月21日に小姓を退く。

宝永7年(1710年刊行の須藤権兵衛蔵版一統武鑑の御寄合衆に「伊東内膳 父志摩守 5千石 本所二ツ目」とある。

享保15年(1730年)に死去。享年41。墓所は代々の葬地である麻布の春桃院。法名は東斎。長男豊之助は早世していたために跡は次男の祐續が継いだ。

系譜[編集]


脚注[編集]

  1. ^ 寛政重修諸家譜に記載される享年からの逆算

参考文献[編集]

  • 『新訂寛政重修諸家譜 第14』(続群書類従完成会、編集顧問、高柳光寿、岡山泰四、斎木一馬。昭和39年(1964年)初版)
    • 寛政重修諸家譜 巻八百九十三
  • 『改定増補 大武鑑 上巻』(橋本博、1965年、名著刊行会)