伊東延吉

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いとう えんきち

伊東 延吉
生誕 (1891-05-01) 1891年5月1日
愛知県知多郡小鈴谷村(現・常滑市
死没 (1944-02-07) 1944年2月7日(52歳没)
国籍 日本の旗 日本
出身校 東京帝国大学法科大学
職業 官吏
配偶者 周子(馬淵鋭太郎次女)
子供 彩(長女)、彬(次女)、一(男)
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伊東 延吉(いとう えんきち、1891年明治24年)5月1日[1]1944年昭和19年)2月7日[2])は、日本の文部官僚

経歴[編集]

富山県出身。旧制第一高等学校を経て、1915年大正4年)に東京帝国大学法科大学法律科在学中に高等文官試験に合格し、翌年に卒業した[1]内務省に入省。岩手県[3]。同県警視、同県理事官を務めた[4]。その後文部省に転じ、事務官に任じられた。文部大臣秘書官書記官、実業学務局工業及補習教育課長、大臣官房秘書課長、学生部長、思想局長を歴任[1][4]1936年(昭和11年)から翌年にかけて同志社大学の教員人事に介入し、末川博具島兼三郎林信雄田畑忍が同大の教壇を追われた[5]1937年(昭和12年)文部次官に就任した。

退官後は国民精神文化研究所所長を務め、1943年(昭和18年)に教学錬成所に改組された後も引き続き所長を務めた。他に勤労者教育中央会理事長も務めた[4]

同志社史では「時流にのったファシスト」と批判されている[5]

脚注[編集]

  1. ^ a b c 大衆人事録 1930.
  2. ^ 『官報』第5129号、昭和19年2月21日。
  3. ^ 『日本官僚制総合事典』東京大学出版会、2001年11月発行、213頁
  4. ^ a b c 人事興信録 1943.
  5. ^ a b 沖田行司編 『新編 同志社の思想家たち 下』 晃洋書房、2019年、159-162頁

参考文献[編集]

  • 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第3版』帝国秘密探偵社、1930年。 
  • 人事興信所編『人事興信録 第14版 上巻』人事興信所、1943年。 

関連文献[編集]

公職
先代
関屋龍吉
国民精神文化研究所長
日本の旗 教学錬成所長
1943年 - 1944年
国民精神文化研究所長
1941年 - 1943年
次代
近藤寿治
所長事務取扱
先代
河原春作
日本の旗 文部次官
日本の旗 教員検定委員会会長
日本の旗 維新史料編纂事務局
日本の旗 学校衛生調査会会長
日本の旗 震災予防評議会会長

1937年 - 1938年
次代
石黒英彦
その他の役職
先代
河原春作
実業教育振興中央会理事長
1937年 - 1939年
次代
石黒英彦