ヴィセンテ・ブラガ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ヴィセンテ・エミリオ・ブラガ(Vicente Emilio Braga、1840年3月 - 1911年3月21日)は、明治時代にお雇い外国人として来日したポルトガル教育者である。

経歴・人物[編集]

アヘン戦争の発生直前の香港に生まれ、同地の英国造幣局及び政庁秘書局を務めた。

1870年(明治3年)日本政府の招きにより弟と共に来日した。ブラガと同じく香港英国造幣局で勤務経験のあるトーマス・ウィリアム・キンダーの部下となり、大阪の造幣寮(現在の造幣局)で勘定役に就き勤務した。同時期に複式簿記を教え日本初の簿記法が成定された。

1875年(明治8年)に解任され大蔵省へ転勤した。1878年(明治11年)に任期満了となるまでそこで官庁における簿記法を講義し、日本における簿記改革に大きく貢献した。退職後は弟と共に簿記学校を設立し、簿記の教鞭を執った。さらに1887年(明治20年)には大阪・神戸駐在ポルトガル領事館の副領事に就任し、日本とポルトガルの国際関係を向上させた。1900年(明治33年)に次女の都合で離日し、上海に移住した。1911年同地で死去した。

出典[編集]