ロバート・スペンサー (初代スペンサー・オブ・ウォームレイトン男爵)

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初代ウォームレイトンのスペンサー男爵、ロバート・スペンサー
Robert Spencer, 1st Baron Spencer of Wormleighton
生年月日 1570年
没年月日 1627年10月25日
死没地 イングランド王国の旗 イングランド王国ウォリックシャーウォームレイトン英語版
称号 初代ウォームレイトンのスペンサー男爵ガーター勲章勲爵士(KG)

イングランドの旗 庶民院議員
選挙区 ブラックリー選挙区英語版
在任期間 1597年 - 1598年

イングランドの旗 貴族院議員
在任期間 1603年 - 1627年
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初代ウォームレイトンのスペンサー男爵ロバート・スペンサー: Robert Spencer, 1st Baron Spencer of Wormleighton, KG1570年 - 1627年10月25日)は、イングランド政治家貴族

貴族としてのスペンサー家の始祖に当たる。

経歴[編集]

サー・ジョン・スペンサー英語版とその妻メアリー(旧姓カトリン)の息子として生まれる[1]。スペンサー家は羊飼いとして成功して金持ちになり、テューダー朝時代には平民の名門家になっていた家柄だった[2]

1597年から1598年にかけてブラックリー選挙区英語版から選出されて庶民院議員を務める[1]1601年から1602年にかけてノーサンプトンシャーシェリフを務めた[1]

1603年ステュアート朝初代国王ジェームズ1世が即位し、その王妃と皇太子チャールズが彼のオルソープ荘園を訪問した[3]。それをきっかけに同年12月にウォームレイトンのスペンサー男爵に叙された[1]。しかし世間には「特別な功績も無く貴族に叙せられた」と陰口されたという[3]1618年には伯爵位を与えるという内諭を受けたが、辞退した[1]

1621年5月8日の議会・貴族院の審議ではイェルバートン英語版事件[注釈 1]をめぐってイェルバートンの証人喚問に反対する第21代アランデル伯爵トマス・ハワードを批判したことでアランデル伯から「我が先祖が王事に奔走していた時、貴方のご先祖は羊を飼っておられたのですね」と侮辱された。この侮辱について謝罪を拒否したアランデル伯はロンドン塔に投獄される事態となった[4][5]

1627年10月25日ウォリックシャーウォームレイトン英語版で死去[1]

栄典[編集]

爵位[編集]

勲章[編集]

家族[編集]

1588年にフランシス・ウィロビーの娘マーガレットと結婚し、彼女との間に以下の4子を儲けた[1]

  • 第1子(長女)メアリー・スペンサー(1588-):リチャード・アンダーソンと結婚
  • 第2子(次女)エリザベス・スペンサー(1589-):ジョージ・フェーンと結婚。
  • 第3子(長男)ジョン・スペンサー(1590-1610)
  • 第4子(次男)ウィリアム・スペンサー英語版(1591-1636):第2代スペンサー・オブ・ウォームレイトン男爵

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ ヘンリー・イェルバートン英語版が庶民院で初代バッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズを批判してロンドン塔送りになった事件。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i Lundy, Darryl. “Robert Spencer, 1st Baron Spencer of Wormleighton” (英語). thepeerage.com. 2014年4月12日閲覧。
  2. ^ 海保(1999) p.14-15
  3. ^ a b 海保(1999) p.16
  4. ^ 海保(1999) p.14
  5. ^ "Spencer, Robert (d.1627)" . Dictionary of National Biography (英語). London: Smith, Elder & Co. 1885–1900.

参考文献[編集]

公職
先代
サー・エドウィン・モンタギュー英語版
ノーサンプトンシャー・シェリフ英語版
1601年 - 1602年
次代
ジョージ・シャーリー
イングランド議会 (en
先代
リチャード・ボーレ
シドニー・モンタギュー英語版
ブラックリー選挙区英語版選出庶民院議員
1597年1598年
同一選挙区同時当選者
ラナルフ・クルー英語版
次代
エドワード・モンタギュー英語版
ジョン・ダン
イングランドの爵位
爵位創設 初代ウォームレイトンのスペンサー男爵
1603年 - 1627年
次代
ウィリアム・スペンサー英語版