レフ・ヴィトゲンシュテイン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
レフ・ヴィトゲンシュテイン、フランツ・クリューガー画、1836年

レフ・ペトロヴィチ・ヴィトゲンシュテイン:Лев Петрович Витгенштейн, 1799年6月8日 コフノ - 1866年6月20日 カンヌ)は、帝政ロシアの貴族で、ドイツシュタンデスヘル。ザイン=ヴィトゲンシュタイン=ルートヴィヒスブルク侯(Fürst zu Sayn-Wittgenstein-Ludwigsburg, 1843年 - 1861年)、のちザイン=ヴィトゲンシュタイン=ザイン侯Fürst zu Sayn-Wittgenstein-Sayn, 1861年 - 1866年)。ドイツ名はルートヴィヒ・アドルフ・フリードリヒ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタイン=ザインLudwig Adolf Friedrich Fürst zu Sayn-Wittgenstein-Sayn)。

ロシアの陸軍元帥であったピョートル・ヴィトゲンシュテイン/ザイン=ヴィトゲンシュタイン侯ペーターと、その妻でポーランド貴族のアントニア・スナルスカ伯爵夫人の間の長男として生まれた。1821年、イギリス王ジョージ4世の戴冠式にロシア政府代表の1人として出席した。しかしデカブリストの主義主張に共鳴していたため、1826年にデカブリストが蜂起した後は、ロシア政府における外交官としてのキャリアを断念させられた。父の政府に対する強大な影響力のおかげで、処罰だけは免れた。

2番目の妻レオニッラの肖像、フランツ・ヴィンターハルター画、1849年

1828年、リトアニア有数の大貴族ラジヴィウ家の女子相続人ステファニア・ラジヴィウ公女(Stefania Radziwiłł、1809年 - 1832年)と結婚した。ステファニアは当時のヨーロッパ大陸では最大の個人資産を所有しており、旧リトアニア大公国領内の多くの町村を含む約1万2000km²の所領をレフにもたらした。またこの際、現在は世界遺産として知られるミール城もレフの所有に帰した。

ステファニアと死別後、1834年にレオニッラ・イヴァノヴナ・バリャティンスカヤ公女(1816年 - 1918年)と再婚した。先妻との間に1男1女、後妻との間に3男1女をもうけた。ステファニアの遺産を受け継いだ長女のマリー(1829年 - 1897年)はホーエンローエ=シリングスフュルスト侯クロートヴィヒに嫁いでいる。

外部リンク[編集]