モー・ダリッツ

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モリス・バーニー・"モー"・ダリッツMorris Barney "Moe" Dalitz 1899年12月24日 - 1989年8月31日)はアメリカユダヤ系ギャング密造酒の販売や労働争議潰しで知られた。20世紀ラスベガスの腐敗を代表する存在。

生涯[編集]

ボストンロシア移民のユダヤ人の家庭に生まれ、ミシガン州に育つ。大学を出て英語の教師をし、家業のクリーニング店も手伝っていたが、1919年禁酒法が成立すると、主にクリーブランドデトロイトアナーバーで密造酒の販売に乗り出した。このとき、クリーニング業でのコネが役に立ち、洗濯物運搬用トラックを密造酒の運送に利用した。儲けは合法的な事業の資金としたが、その一方で、クリーヴランドでは非合法な賭場を経営していた。

1929年アトランティック・シティで行われたギャングの会議(アル・カポネラッキー・ルチアーノら出席)にクリーブランドから出席した。

禁酒法廃止後は、ケンタッキー州などでもカジノを経営していた。1938年後半にエリオット・ネスがクリーヴランドに来て、暗黒街の調査に乗り出した。当時ダリッツはメイフィールド・ロード・ギャングの最高幹部だった。1939年4月、ネスが出廷した大陪審は23人のギャングスターを起訴した。その後、メイフィールド・ロード・ギャングは勢力を失い、ダリッツたちメンバーの多くはクリーヴランドから逃げていった。

1940年代後半にカジノ経営が合法なネバダ州に目をつけ、ラスベガスへの投資を開始。ラスベガスに来たときは合法なビジネスマンを装いギャングとの関係を切っていた。ホテルカジノの"デザート・イン"が経営難に陥ったとき、所有者のウィルバー・クラークから店を引き継いだのが最初である。店の所有権がダリッツに移った後もクラークはフロントマン(店がギャングの経営であることを隠すためのお飾り)として留め置かれた。その他、ダリッツは、トニー・コルネーロの死後"スターダスト・リゾート&カジノ"を経営していたこともある。1967年に"デザート・イン"を億万長者ハワード・ヒューズに売却したのは、自らの不法行為から当局の監視の眼をそらす方便だったといわれる。

違法な手段で儲けた金を元手に合法的な形でビジネスを進め、計画的に所得隠しをしていた。いくつもの表の顔と裏の顔を使い分けながら、ラスベガスの有力者として君臨し、公の場に現れては賞をもらっていた。

その後もラスベガスに隠然たる勢力を誇り、1989年に死んだ時は、遺言によって巨額の寄付金を多数の団体に遺した。友人に俳優のボブ・ホープダニー・トーマスらがいた。