ダッチ・シュルツ

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ダッチ・シュルツDutch Schultz1902年8月6日 - 1935年10月24日)は、1920年代から1930年代にニューヨークで活躍したギャング。本名はアーサー・フレゲンハイマー(Arthur Flegenheimer)。気が短く暴力的な性格で、問題がおきると銃で解決するタイプで、多くの流血沙汰を起こした。

少年時代[編集]

ニューヨークのブロンクスユダヤ系ドイツ人ユダヤ系)移民の両親(父は酒屋の主人だった)の間に生まれる。14歳で父が失踪し、学校を中退して働き始めたが間もなくギャングとなって17歳で強盗を働いた。

禁酒法時代[編集]

ビール男爵[編集]

禁酒法が成立すると、ローカルギャングの元を転々とし、モグリ酒場や賭博の下働きをした。この間、アーノルド・ロススタインフランク・コステロオウニー・マドゥンラッキー・ルチアーノらと知り合った。

1920年代半ば、独立して闇酒商売を始めた。幼馴染みのジョーイ・ノイのスピークイージー(ヤミ酒場)を拠点に、ニュージャージーの密造業者フランキー・ダンから買い付けたビールを武装トラックでブロンクスに運んでは闇酒場に売りさばいた。ジョーイ・ラオ、ワインバーグ兄弟、ラリー・カーニー、エドワード・マッカーシー、コール兄弟ら屈強な手下を従え、購入を拒否する酒場に手荒い制裁を加えては取り込み、闇ビールの販路を急速に拡大した。ニューヨークにおけるビールの最大供給者であったため「ビール男爵」と呼ばれた。

ライバル抗争[編集]

ブロンクス一帯を支配下に置いた"ビール男爵"は、1928年マンハッタンのハーレムへ本拠を移し、ジャック・レッグス・ダイアモンドと抗争した。ダイアモンド一味にジョーイ・ノイを殺されると報復にダイアモンドのパトロンだったロススタインを謀殺したとされる。

1920年代後半、ルチアーノ、コステロらのギャング大集会に参加した。サルヴァトーレ・マランツァーノ勢力と一時縄張りで対立した。1931年のカステラマレーゼ戦争ではラッキー・ルチアーノに味方し、一説にはマランツァーノ暗殺に手下ボー・ワインバーグらヒットマンを提供した。やがて五大ファミリーを再編したルチアーノらと共に全米犯罪シンジケートのメンバーとなり、ニューヨークの縄張りの確認が行われたが、内心その縄張り協定が気に入らず、ルチアーノとは縄張りをめぐり小競り合いが続いた。

1931年から1932年にかけてジャック・レッグス・ダイアモンド(Jack Diamond)、かつての部下ヴィンセント・コール(Vincent "Mad Dog" Coll)と抗争を繰り広げ、最終的に両者とも殺害した。

ナンバーズ賭博[編集]

1930年代初め、酒の密売に代わる収入源としてハーレム一帯の、非マフィア系黒人が運営していたポリシーゲーム(ナンバーズ賭博の一種)の乗っ取りに動いた。タマニーホールのジミー・ハインズ、弁護士デキシー・デイビスと結託して、30ほどあった組織を1つに束ねる形で支配下に置いた。頭領のステファニー以下、乗っ取られた黒人はバンピー・ジョンソンを除いて降参した。シュルツの側近で組織のNo3だったマーティ・クロンパイアが管轄した。

レストラン組合ほか[編集]

外食産業の組合に触手を伸ばし、暴力や悪臭弾を使ってウェイターやコックの組合を次々と支配下に置き、寄付金・協力金の名目で多額の金を吸い上げた。部下ジュールス・マーティンに管理させた。 またシンシナティの競馬場を買収し、コニーアイランドトラックと名付けてニューヨーク外にテリトリーを拡大する動きを見せた。

潜伏[編集]

1934年、検事トーマス・デューイに脱税容疑で告発され、22ヶ月にわたって潜伏生活を送る。第一審で有罪となったが、第二審では陪審の買収工作により無罪を勝ち取った。その間、副官ボー・ワインバーグ(Abraham "Bo" Weinberg)がラッキー・ルチアーノとシュルツの縄張りを乗っ取る密約を交わしたとされ、これに気付いたシュルツは裏切り行為だとして激怒した。

潜伏生活から復帰したシュルツは1934年ニューヨークに戻るが、彼の収益システムは既に壊滅させられていた。その上、無罪判決に激怒したフィオレロ・ラガーディア市長がニューヨークに戻り次第シュルツを逮捕するよう命じたため、ニューアークへ拠点を移さざるを得なくなった。この間ボー・ワインバーグが突然行方不明になった。警察が暗黒街ルートから得た情報によればワインバーグは足をセメント漬けにされハドソン川に沈められたとのことだった。

暗殺[編集]

シュルツはニューヨークを追われた事を恨み、デューイの暗殺をシンジケートの会議に諮った。アルバート・アナスタシアジェイコブ・シャピロJacob Shapiro)は賛成したが、デューイ暗殺による司法当局の取締強化を恐れた多くのメンバーが反対した。ジョゼフ・ボナンノは「これは正気じゃない」と語ったという。業を煮やしたシュルツは自分の配下を使って暗殺することに決め、準備を始めた。この動きを察知したルチアーノは「シュルツ消し」をマーダー・インクに指示した。

1935年10月23日の夜、ニューアークの呑み屋"パレス・チョップハウス"でシュッツは知恵袋のオットー・バーマン、用心棒のエイブ・ランダウルル・ローゼンクランツら部下3人と一緒にいた。夜10時過ぎに2人の刺客(チャールズ・ワークマンエマニュエル・"メンディー"・ワイスEmanuel Weiss))が突如現れてシュルツ一味に一斉に発砲した。銃弾を浴びた用心棒の2人が反撃に転じると、ワイスはレストラン外に走り去り、ワークマンはトイレで用を足していたシュルツを見つけて 2発の銃弾を放った。逃げ遅れたワークマンは弾を込めているランダウらのスキをついて店の外に逃げた。シュルツは自力で席まで戻るとテーブルに突っ伏した。敵を追いかけてレストラン外に出たランダウは近くのゴミ箱にあぐらをかいた状態でうずくまり、ローゼンクランツはレストラン内の電話ボックスの前で倒れていた(救急車を呼んだ後に倒れたと推定された)。レストランに他の客はいなかった。

シュルツの胸を貫いた銃弾は、ワークマンの放った銃(38口径)ではなく用心棒2人の銃(45口径)に一致しており、撃ち合いの中で敵を追いかける用心棒の放った流れ弾に当ったとされた。ランダウは3発、ローゼンクランツは7発の銃弾を受けていた。ワイスは待機させていた車で先に逃げてしまったため、逃げ遅れたワークマンはレストラン裏に抜け出して電車の線路沿いに歩いて帰った。

部下3人と共にニューアーク市立病院に担ぎ込まれたシュルツは警察の質問に一切答えず、終始うわごとを口走った。最も深手を負ったバーマンが最初に死亡、ランダウは襲撃から8時間後に、ローゼンクランツは29時間後に死亡した。シュルツは22時間後の24日夜8時に腹膜炎により死亡した。

事件翌日のニューヨークのタブロイド紙に 「シュルツ銃撃さる」の見出しが踊った。ハーレムの女王で過去シュルツにポリシーゲームを乗っ取られたステファニー・セント・クレアは死の床にあるシュルツに"As ye sow, so shall ye reap." 自分で蒔いた種は自分で刈り取らねばならない という短い電報を送った。

最後に言った言葉は「俺のことはほっといてくれ」。彼はユダヤ教徒だったが、銃撃直後にカトリックに改宗したため、ニューヨークのCemetery of the Gate of Heavenに埋葬された。

ダッチ・シュルツの墓

シュルツ襲撃から2時間後にマンハッタンのブロードウェイの理髪屋にいたシュルツの側近マーティ・クロンパイアとサミー・ゴールドが襲撃された。同じマーダー・インクの仕業とみられ、シュルツ勢力の一気せん滅を狙ったものと推測された。

暗殺余波[編集]

実行犯二人は5年後に逮捕され、ワークマンは終身刑(1964年釈放)、ワイスはマーダー・インクによる別件の一連の殺人により1944年に処刑された。ワークマンは23年間刑務所に入ったが、その間マフィアはワークマンの面倒を見たという(出所後のワークマンのその後は不明)。

死後、シュルツの縄張りはアブナー・ツヴィルマンやルチアーノ一家のマイケル・コッポラらが引き継いだ。

題材にした作品等[編集]

シュルツが死の直前に残した脈絡の無い言葉は警察の速記者によって記録され、ウィリアム・S・バロウズ(『ダッチ・シュルツ 最期のことば』など)らの作家が作品の題材とした。彼の生涯は、多くの小説映画ダスティン・ホフマンがシュルツを演じた『ビリー・バスゲイト』(1991年)、リチャード・ギアがシュルツの子分を演じた『コットンクラブ』(1984年)、バンピー・ジョンソンとの戦いを描いた『奴らに深き眠りを』(1997年)など)の題材になっている。なお、ルチアーノが「最も安っぽいやつだった」と言っているように、いつも安いスーツを着ていたという。

外部リンク[編集]